#197 若葉マークの雀たち
小林一茶の有名なあの俳句 ”すずめのこ そこのけそこのけ おうまがとおる” の世界,”すずめのこ”という言葉、ある日一瞬にしてストンと腑に落ちる感じがした.
”ある日” 突然 わかる
以前も書いたことだけれど,人生の中で世界が違って見える日は突然訪れた.
5月のある日,いつもと同じような朝の出勤途中,ふと上を見上げると小さな雀がたくさん電線に羽を休めて一列横隊でいるのに気づく.よく見ると,とても体が小さい.雀の巣立ちが正確にいつかは知らないけれど,見るからに”若葉マーク”の”新人”グループであることは間違いなさそう.遠くのカラスの鳴き声に驚いたのか,一瞬にして”雀の子”を散らすように飛び去る.その日以降,朝の通勤途中で見上げるとそこにいる雀たちは,確かに昨日までとは違って見える.大きい雀は親鳥か?小さい雀は子雀か?雀を見るたび,自分の心も一瞬だけ”空の住人”たちにフォーカスされる.
梅雨も明け,今年の夏の長雨の空を見上げて思う.違いが分からない.そうか,若葉マークが取れて,体も大きくなった幼鳥たちも既に”大人”と同じ見た目になったんだ.もし体長・体重を測ればまだ違いはあるかも知れないが,見た目には違いはない.違いがなくなったことに気づいたら,生き物の成長を感じることができ,”雀の涙”が出るほど?嬉しくなった.
”おうま”とは?
「季語は?」「字数は?」などと,”字面”(じづら)をいつも気にしている気がする.”お約束”が守れているかに気が行くのだけれど,小林一茶の句に関しては,”文句なく”情景が切り取られ,少しユーモラスで幼子をやさしく眺める大人の視線が目に浮かぶ。
ウェブで句の説明を読ませてもらうと,「おうまがとおる」というのは,子どもたちの竹馬のことだとある。そういえば,昔教室で先生の解説を聞いたことがあったような,無かったような,,,.昔の田舎には農耕馬がいたので,てっきり本物の馬だと思ってた。
そういえば,”竹馬”というものを,今の子どもたちは知っているのかな?プラスチックでできた”竹馬”ではなくて,竹で作った”竹馬”です.私が小さい頃は,おじいさんに切ってきた竹で作ってもらって遊ばせてもらった記憶がある、あの若竹の匂い,はだしで親指が痛い痛いと言いながら,転びながらやっとの思いで乗れたあの”竹馬”.今はもうないのかもしれない。そもそも家の近所に竹が生えていて,それを作ってくれるお爺さんが近くにいる人,かなり減ったのだろうと思う。今頃,この一茶の句を教室で教える先生方,ご苦労されているのでは?「むかし,竹馬というものがあってね,・・・・」という感じで説明をしてもらっているのだろうと想像します.
一茶と同じ目線?
この句は,一茶が56歳から57歳の頃の作品と書かれていて,「あーなぁるほど」と頷けます.自分が若い頃,はかないもの,小さいもの,これから育つもの,そういう物事にあまり関心がなかった気がしています.自分の生きてきた時間より,これから生きていく時間の方が長く,”人生の旅行準備”に忙しい時期には,「すずめのこ ・・・・」という句を眺めても字句通りにしか目に入りませんでした.50歳を過ぎると状況は一変して,”人生の振り返り”と”次の世代に残す準備”に忙しい時期を過ごしていると思います.
”あわれ” - ”かなしみ” = ?
”はかない”(儚い・果敢ない)状態は,”無常”で消えゆくものを指し,”かなしさ”とつながっていると思います.”あわれ”(哀れ)な状態は,不憫で同情を引く悲しい場面もありますが,”しみじみとした情緒”も含まれます.
「すずめのこ ・・・・」という句には,50歳を過ぎた人には,”しみじみとした情緒”を感じさせるのかなと思えます.空を飛ぶ雀を見て,”未来”だけを見ていた若いころには見えなかった視点が,あの5月の日に突然,自分の目に装着されたような気がします.