我が子が、人から愛されていくように

他人の前で、我が子を律することができない親がいる。
可愛い我が子には、なるべく制約をしないで、自由に思うがまま生きていってほしいのだろう。その気持ちは分かる。

だが、その子の親の前で、他人がその子を叱ったり、たしなめたりすることは極めて難しい。なぜなら、親がわが子にするべきことであり、他人がすべきことではないからだ。その親の教育方針があるだろうから、他人は遠慮する。親が子をたしなめるのを待つ。

ところが、親にその気がない場合がある。他人が所有するものをほしがったり、マナー違反の場合であったりしても、叱るどころか、他人が「いいよ、いいよ」と言ってもらうのを待ってもらう、といった具合だ。正直、これは質(たち)が悪い。我慢させるのは親の役目であって、他人ではない。親ではない他人はあくまで第三者であり、親ほどはその子のことを目に入れても痛くないとは思っていない。

また、子どもはそういう親の態度を見抜いている場合がある。そして、あわよくば親子一緒になって「いいよ、いいよ」と言ってもらうのを待っている。これは、本当に困る。そして、周りを困らせる親子は、共に周りから嫌われてしまう。最終的に不利益を被るのは、その子どもである。周りから愛されにくくしてしまっている原因は、その親ということになる。

したがって、我が子が愛されるために親がするべきことは、子どもを言い聞かせることである。子どもは、駄々をこねるかもしれない。拗ねるかもしれない。泣きわめき、暴言を吐いて、周りを困らせるかもしれない。しかし、実際に周りがはるかに困るのは親が子どもを叱らないことの方だ。そして、やがて子どもは悟る。こういうことを繰り返す中で、このことは聞いてもらえることなのか、聞いてもらえないことなのかを判断できる能力を身に着ける。言っても無駄だと分かっていれば、子どもははじめから諦めるものである。駄々をこねた結果、親から叱られず、他人を困らせた結果、もし欲しいものを手に入れられるとしたら、それは親も周りもこぞってその子を不幸にするのである。そのようにして欲しいものが手に入れられる、という可能性を脳裏に植え付けてしまうからだ。

我が子が、人から愛されていくために。親は子を叱る。その深い意義がもっと共有されていけばよいと願う。






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