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時代と国を超えて、ふたりのおじいちゃんの心を繋げることになった話
「ヒロシマとナガサキには、今、草木は生えているか?」
21世紀にそんなことを聞いてくる人が本当にいるのか、と私は驚愕した。でも彼は真剣だった。
15年前のこと。
長崎出身の被爆者の祖父を持つ、22歳大学生のわたし。アメリカ軍の一員として戦争に出征していた92歳のおじいちゃん。
この2人が出会った。この出会いは、私の4年間のアメリカ留学でもっとも忘れられない経験のひとつになった。
19歳で単身アメリカの大学に入学した私は、当時大学4年生で、博物館でフルタイムインターンをしていた。私のいた学部では、卒業前にフルタイムインターンが義務付けられていて、私はかねてから興味のあったスポーツ殿堂入り博物館で、運営やイベント企画をやっていた。
そのとき出会ったのが当時92歳のジャック。ある日、上司から「今日、隣のビルに住んでいるおじいちゃんがアルバイトで来る」と言われた。「彼、戦争の話が好きで、話し始めたら止まらないのよ」とも聞き、アメリカでは日本との戦争のことをいまだによく思っていない人もいるから、私はとても緊張した。
そもそも92歳でバイトってすごくない?と思いつつ、実際に会ってみると、くりくりの目をしていて、ゆっくり歩く割に足取りが軽い可愛いおじいちゃんだった。年齢のせいか猫背だったけれど、きっと若い頃は背筋がシャッキとしていて、肩幅ががっちりなイケメンだったのだろうな、と想像ができた。
ジャックは、バイトに来ない日はゴルフに行っている。奥さんは20歳若いヨガインストラクター。バツイチで再婚らしい。
そんなことを初日から話してくれた。上司の言う通り、話はめちゃくちゃ長かったけど、仲良くなれそうだなと安心したのは覚えている。
ジャックはいつも博物館の受付にいて、会うたびお互いに「最近ゴルフはどう?」「昨日何食べたの?」「学校はどう?」などと声をかけ合い、とりとめのない話をたくさんした。私のつたない英語をよく理解してくれて、気づけば会うのが楽しみな、大好きなおじいちゃんになっていた。
上司の言う通り、戦時中の話もよくしてくれた。第二次世界大戦中、軍の一員として戦争に行った話とか、船に乗った話とか、どこの国に行ったとか。日本人に会ったとか。
そしてあれはおそらく、インターンが始まって1ヶ月経った頃だと思う。
私が2階のオフィスから1階の受付へ降りると、ジャックがいた。平日で来客がないからか、ジャックはポップコーン食べながらテレビを見ていた。猫背でデスクチェアに座っている姿は愛おしい。
いつものようにおしゃべりをしていたら、家族の話になった。特に何も考えず「私の両親はどちらも東京出身。私はシティガールなんだ。でもね、おじいちゃんは長崎出身。あ、長崎って知ってる?よね?」と言った。
なぜこの話の流れで、私が当時東京に暮らす祖父の出身地の話をわざわざしたのか、まったく覚えていないのだが、とにかく私は「おじいちゃんが長崎出身」と伝えた。
そのときのジャックの表情を、私は忘れない。驚いて、でも聞きたいことがたくさんある、みたいななんとも言えない表情。一瞬止まった空気に私は「やってしまったか……地雷だったか……」と背筋が凍った。
でもジャックの口から出たのは、冒頭の言葉だった。
私は「もちろん。今じゃ都市だよ。たくさん人が住んでいて、とっても素敵な街よ」と伝えた。
ジャックは「そうか、良かった」とニコッとした。頬に入った細かいシワの線がクシャっとしたことを今も覚えている。今思えば、その笑顔のなかに少しだけ何か寂しさを感じた気がしたけれど、当時は特に気にも留めなかった。
この日から私たちは戦争についてよく話すようになった。
留学前、祖父の想いを初めて知る
ジャックとの会話のきっかけになった私の祖父は、長崎出身で、15歳のとき長崎に投下された原爆により被爆した被爆者だ。
大学進学とともに東京に出て以来、ずっと東京で暮らしていた。同じ敷地内に住んでいたので、私はかなりのおじいちゃん子だった。
子供の頃から、祖父が被爆者であることは母から聞いていたけど、祖父がみずから話すことはなかった。
祖父の兄が遊びにくると、わざわざシャツを脱いで「原爆の爆風で刺さったガラスが今も背中に入ってる」と傷を必ず見せてくれた。今振り返るとあれは次の世代へ、戦争の恐ろしさを伝えるために、あえてやってくれていたのかもしれない。
一方で、原爆での実体験を身をもって教えてくれる祖父の兄とは違い、祖父はあまり原爆の話をしたがらなかった。私が小学校3年生のとき、学校で「戦争の話を聞こう!」という企画があり、祖父にゲストスピーカーをお願いした。でも祖父は「話したくない」と断ったのだ。
結局、友達のおばあちゃんが登壇した。小学3年生の私は、なぜそんなに話したくないのだろうかと思った。まだ幼い私には、戦争が祖父にとってどんなものなのか、まったく理解できていなかった。
時がたち、私は高校3年になり、高校卒業後はアメリカに留学することを決た。両親は「この子は一度言い出したら、人の話はきかないから」と呆れつつ背中を押してくれた。祖父は「世界で活躍する人になるんだな」と喜んでくれた。
そのときの私は戦争のことなんて全然頭になくて、とにかく英語を頑張らねば、準備をしなければ……と目の前のことで精一杯。
でも渡米まであと1ヶ月に迫ったある日、私はいつものように祖父のところに遊びに行った。同じ敷地に住んでいたので、気軽にちょっとおしゃべりに行っただけなのだけれど。
いつも通り世間話をしたあとで、祖父は突然「アメリカはな、昔、敵だったんだよ」と言い、原爆が投下された日に、体験したことを静かに語り始めた。
祖父は当時、中学生で、学徒動員として工場で働いていたこと。
爆心地からは少し離れたところに住んでいて、原爆が落ちたときは夜勤に備えて昼寝をしていたこと。市内に爆弾が落ちてとんでもないことになったと知り、市内で働く兄が心配で、姉と歩いて市内にむかったこと。
そこで黒焦げになった人、肌がただれている人をみたこと。空襲警報が鳴り、橋の下に逃げたら、そこは死体だらけだったこと。
兄は無事に見つかったが、背中にガラスが刺さり、とても苦しんでいたこと。その兄の姿を見て「こんなことをしたアメリカ人は絶対に許さない」と思ったこと。
そこまで話をしたときには、祖父の目から涙が溢れていた。
眼力の強い祖父の目から落ちる涙を、私はあのとき初めて見た。
祖父はそのあと、こう言った。
「それから随分と時間が経って、日本はアメリカと手を取り合って成長してきた。今は過去に囚われる時代じゃない。だからアメリカで活躍してきてくれ。でもその前にこれだけは伝えたかったんだ」と。
あとから知った話だが、娘である私の母も叔母も、祖父から原爆の話を聞いたことは一度もなかったらしい。そして祖父が亡くなるまでその話をすることは二度となかった。
祖父にとっても勇気のいる一世一代の告白。そこには、敵国だったアメリカに行く孫に、これだけは伝えなければ、という強い意志があったのかもしれない。
祖父の渾身の想いを聞いたからこそ、私は頑張ろうと思えた。結果的にはまったくアメリカで活躍するような人間にはなれなかったけど、あの言葉のおかげで留学生活4年間を頑張れたと言っても過言ではない。
ジャックの心の中にある”ひっかかり“
だからこそ、ジャックに出会ったことは、私に大きな意味があることだった。
ジャックは私の祖父についてとても興味をもっていて、私は祖父から聞いた原爆体験をすべてジャックに話した。祖父はもう怒っていないし、むしろ私がアメリカで勉強していることを喜んでいるよ、と。
安心した顔で「そうかぁ」と言ったジャックのあの表情が忘れられない。
私は気づいたことがある。ジャックと戦争の話をするとき、たまにどこか一点を見つめて言葉を選んだり、寂しそうな表情をしたりする。気まずいのかな、言葉を選んでいるのかな、と思っていたけれど、話しているうちに気がづいた。
彼は「原爆なんて落として良かったのか」とずっと思いつづけていることに。もちろん彼が原爆に関わったわけでもなんでもないのだけれど、ずっとにひっかかっているような。軍の一員として戦争に関わった自分を責めているような。
ステレオタイプな大衆の意見だけれど「アメリカ人は原爆を戦争を終わらすために必要なことだった思っている」とよく聞いていたから(もちろん全員がそう思っているわけではないし、あくまでイメージだけど)、こういう考えの人がいるのかと驚いた。
でも何度もジャックが「良かった」と言うのを聞いて、なにか自分に言い聞かせているように感じていた。「広島も長崎も今何も問題がなくて良かった」「おじいちゃんが健康で良かった」とか。とても安堵しているようだった。
ジャックは長い人生のなかで、いまだに戦争のことを振り返って「こんな終わり方で良かったのか」「原爆なんて落として良かったのか」と思ってきたようだった。
そんな時にポッと現れた被爆者の孫。被爆者の今、被爆地の今を聞き、長年頭の中にあったモヤモヤが少しだけ解消されたのかもしれない。
昔は敵同士だったのにね。私たち、この時代に出会えて良かったね。
世代を超えた大切な贈り物
ほどなくしてやってきたインターン最終日。このインターンが終わったら卒業式で、私は日本に帰ることを決めていた。
最終日はみんなでランチに行こう!と上司たちがランチ会を企画してくれた。ジャックも「アイの最後のランチは絶対に行くから、予定を空けておくから、絶対に教えてくれ!」と食い気味に上司に言っていた。ありがたい。
そして近くのレストランでみんなでランチをした。食事を食べ終わった頃、みんながサプライズでプレゼントをくれた。館長からは、無給インターンのはずが300ドルの小切手をもらい「それだけのことをしてくれたから」と声をかけられて泣いた。時給にしたら1ドル切るけど、そんなの関係ない。気持ちが嬉しい。上司はたくさんのスポーツ関連のグッズをくれた。
そしてジャックは、アーティストとして活動する娘が描いたという花の絵と、自分の名前が入ったゴルフボール、そしてもうひとつ小さなバッジを私に差し出した。そしてジャックが言った。
「これは、軍にいたとき、最初にもらった階級章だ。階級が一番低いもので申し訳ないけど、アイに持っていて欲しい。」
私は一瞬停止した。
そして思わず「いやいやいやいやいや!こんなに大切なもの絶対にもらえない!」と、断った。でもジャックは「いや、これはアイに持っていて欲しいから、もらってくれ」と真顔で、絶対に引かなかった。
周りの上司や同僚たちは、引いているのか、びっくりしているのか、みんな停止していた。みんなどう思っていたかはわからないけど。
私は、絶対引かないジャックから強い意志を感じた。だから私は覚悟を決めて、一生この階級章を守る。次世代にも繋げる。そんな想いで受け取った。
そして、これでジャックのなかにある”戦争のひっかかり”がひとつでもなくなったのだとしたら、受け取ることに大きな意味があったと思う。
きっと2人はいい友達になる
あれからもう15年が経つ。今も私のデスクにはこのバッジが置いてあって、いつでもジャックのことは思い出せる。そして同時に祖父のことも思い出す。
卒業して4年後、一度だけアメリカに遊びに行き、元気なジャックに会えた。少し足が悪くなったらしく、歩行器をつかっていたけど。
でもその後は、博物館自体の移転がありジャックはバイトに行かなくなったし、繋いでくれていた元上司とも疎遠になってしまって、それからジャックとは音信不通だ。
当時92歳だったので、今107歳ということになる。今どうしているのかはわからないけど、この階級章がある限り私はジャックと繋がっている。
祖父は8年前に他界したけれど、最後まで唯一の女の孫である私を可愛がってくれた。祖父が涙を流してまで、私に想いを託してくれたこと、本当に感謝している。
会うことがなかった私の祖父とジャックだけれど、私の中では2人は繋がっていて、階級章を見るたび2人の顔が眼に浮かぶ。きっといい友達になる気がするんだよね。
絶対に交わることがなかったたずの2人の人生。なぜか私を介して交わってしまった。この現象を表す言葉がこの世にあるんだろうか。
この階級章を見ながら、この出来事を思い出しながら、私はこれからもずっと彼ら2人に、そしていつかまた帰りたいアメリカに想いを馳せる。
祖父が一度は憎んだアメリカは、私にとって大切な大切なジャックと出会った思い出の地になったのだから。
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