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映画『哀れなるものたち』ラストシーンの意味〜終わりなき「向上」の限界〜

映画『哀れなるものたち』を観て考えたことを記す。私が着目したのは主人公ベラが執着する「向上」の概念だ。
ベラは船の上で本を読み、「人間は『向上』し続けることこそ理想的な状態だ」と考える(テーゼ)。それに対し友人のハリーは「人間は残酷な獣にしか過ぎない」(アンチテーゼ)と告げ、アレキサンドリアに暮らす貧困にあえぎ死んでいく、一見獣のような人間の姿を見せる。
ベラにとっての「向上」とは「世界を経験すること」≒「知識の習得」と思われるが、映画を通してベラは人と対話し本を読み、驚異的なスピードで「向上」していく。私はここで、自然の摂理に逆らったスピードでの「向上」への不安を感じた。イカロスの翼が溶けたように、終わりがない向上はあり得ない。ダーウィンの進化論がナチスの優生学を産んだように、向上の追求は負の側面を持つ。ベラはどうなってしまうのか。
映画は進み、ラストシーンへ。ベラなりの社会主義理想郷を実現したような、幸せなコミュニティが出来ている。ベラ2号とも言えるフェリシティがジンを取りに行き(本来ならばその役目を担う)召使に手渡す。ベラのそばには、ベラが娼婦であったと知っても変わらぬ愛情を注ぐマックス、フランスからやってきた元娼婦仲間でレズビアン的関係の社会主義者、そしてヤギと脳を入れ替えられた将軍。ここで違和感を覚える。将軍はヤギと脳を入れ替えられる必要はあったのだろうか?私が映画を見ながら想定していたのは、将軍にロボトミー手術(残虐性を司る脳の一部を切り取るというような)が施されるという展開だった。ロボトミー手術がいい(残虐の対義としての優しさ)とは決して言わないが、映画としてはそれで十分オチがつくようにも思われる。
私は、ヤギ将軍こそが、ベラが追求した終わりなき「向上」の破綻の印だと考える。つまり、ハリーが指摘したように人間は残虐な動物に過ぎないのであり、ベラの残虐性は「向上」の結果手にした医学という道具を使って、将軍へのやり過ぎな復讐という形で発揮された。「向上」の限界と人間の残虐性が同時に示されたのが、一見幸せなラストシーンに紛れたヤギ将軍だったのである。なお、将軍との食事シーンでヴィクトリア(生前のベラの身体の主)が残虐を好む点で将軍と結びついたことが暴露されており、「脳が入れ替わっても人間の残虐性という本質は変わらない」という指摘がなされている点も見逃すことはできない。


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