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交差する場所

どんなときにしあわせを感じるのか、わりと真剣に考えてみた。
たとえば、好きなひとから唐突に元気?とか会いたいというメッセージが来て嬉しくなったとき、こどもの寝顔をみてほっこりしたとき、うまくいかないかもしれないしわかってもらえないかもしれないと悲観していたことが始めてみたら案外うまくいってほっとしたとき、失敗してひたすら落ち込んで無力感に苛まれて殻に閉じこもっているときに、その失敗したできごとが実はこういう意味があったんじゃないのかなと自分の中に見出したときのなんらかの繋がった感を感じたとき
あげようと思ったら、いくらでも出てくる。

そういうわけでわたし自身は、良い巡り合わせにもそうではない巡り合わせでも両方にしあわせを感じるなと思っているようである。
その巡り合わせの裏にあるストーリーが美しいと思っているから、そう感じるのかもしれない。
わたしはそのできごとが良いか悪いかよりも、そのことが自分に訪れたストーリーの方に興味関心があるのだと思う。
一般的に良いとは思えない巡り合わせがあったとしても、それが自分にやってきた意味や、どうモチベーションを保って対処していくのか、に目を向けた方が興味深いから、良い悪いでジャッジしてしまうのはもったいないなと日々感じている。大切なものを取りこぼしてしまいそうな気がして。

しあわせとは何か辞書で調べてみると、元々、偶然で合わせた良い巡り合わせにも悪い巡り合わせにも、両方の意味に使われているようであった。わたしもこちらの意味で使用しているようである。
いつの日からかわからないけれど、いつのまにかしあわせは偶然に訪れる良い巡り合わせのことを指すようになったみたいだ。
その日あった良いできごとを探すとなんかしんどいんだけど、あのできごとにこういう意味を見出せた、と感じたほうがしあわせを見つけやすい気がしているし、わたしはそう考えるのが楽みたいだからそうしている。

ところで、わたしはしあわせと愛はなんだか似ているし繋がっているような気がしているんだけどどうなんだろう。
愛とは辞書的になにかを愛おしい、守りたいと思う気持ちのことらしいんだけど、巡り合わせのその先にそれがあるのではないかと思わなくもなくて。
そしてそれは、出会わないと愛おしいという気持ちや守りたいという気持ちが生まれないものだと思うから。
そう考えると、愛はもしかしたらしあわせの延長線上にあるのかもしれない。

じゃあ、それらの反対語そうな、ふしあわせや憎についてはどう定義するのか。
ふしあわせは、巡り合わせに特別な意味を見出せないこと、憎は巡り合ったけど愛おしいという気持ちも守りたいという気持ちも生まれずに不快な気持ちになったりしない、と考えている。

こうは言ってみたものの、たぶん正解なんてどこにもない。自分自身で探すものなのかもしれないけど、すぐに見つかりそうもなくて、長い旅になりそうである。

こうして思考することがこの答えのない問いかけのひとつの正解とも思えるし、それは不変じゃなくて永久に変化の一途を辿るものであって、だからこそ答えを知りたいとひとは願うのかもしれない。

巡り合わせってそのひととそのひとの人生が交差する瞬間でもあって、そこまで辿り着くのに何かひとつでも違う道を辿っていたとしたらそのひとと出逢っていなかったのかもしれなくて、そう考えると誰かと人生が交差する瞬間は奇跡だなとわたしは思う。いやなことがあったりするとすぐ忘れてしまうのだけれど、交差した奇跡を考えると出逢いにプラスの要素を加えられそうな気がしている。

そんなことを満月が輝く星空の下で考えてみたんだけど、考えすぎてとっくの昔に満月が通り過ぎてすっかり外があたたかくなってきている。

春の嵐が街の汚れを洗い流してくれている今日、わたしの薄汚れた心もついでに洗い流してくれたらいいのにと願っているわたしは、人間らしいなと思う。

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