卒論を終えて
そろそろどこかでひとりで吐き出さないと、何かがうまくいかなくなるような感じ。あと友達にこのままだと卒論を苦にして自殺した人みたいになっちゃうよって言われたのでnote再開したい。前回久しぶりに書いたやつで、ほとんど内容もなかったのに読んで星をつけてくれる人が思ったより多かったのがすごく嬉しかったです。
卒論はとりあえず書き上げて、発表も終えて、あとは審査を待つのみの状態。
とてもとても体裁が整っているとすら言えない、審査もわりと不安になるような論文になってしまったけど、でも内容自体はすごく興味を持ってやれたから、それはすごくよかった。
テーマは、やらなければいけないこと、やりたいこと、やりたくないこと、やることを期待されることとか、それらのグラデーション、そういういろんなぐちゃぐちゃに対して、みんなはどう付き合って生きているのか、みたいな疑問が出発点になって決めた。
もちろん人によって、その内容も、それに対する付き合い方も違うし、同じ人でも内容によって付き合い方を変えるんだと思う。
だけど面白いなあと思ったのは、同じようにやりたくないことをやっているとしても、それに対する耐性みたいのも人によって違うこと。やりたくないけどやらなきゃいけないししんどいけどひたすら耐えるっていう人とか、そりゃやりたくはないけどやり始めたら思ったより辛くないしそういうものだと割り切ってるって人とか、本当にやりたくなくてすごくすごく辛くてなかなか始められないって人とか。
考えてみたらこういう違いは当たり前なんだけど、当たり前にみんながみんなと同じことをやることを一様に期待されていることが多い社会だから、辛い思いをする人はたくさんいるし、気持ちの大小を考えなければ辛い思いをしていない人の方が少数派だろうし、そういう気持ちを無視したくないなあと思う。
だけどみんながみんなやりたいことがあるわけじゃないし、これをやっていれば安心という、模範解答、レールの存在っていうのもそれなりに大きな役目を果たしていて、やりたいことがない人はダメ、みたいなのもなんか違うから難しい。
論文自体はこういう話をもっと具体的な話に絞って書いたんだけど、ここでは抽象的にしか書いてないから何言ってるかわかんなくなっちゃった。だけど、ひとつの結論・気づきとして、その行為の過程・プロセスに対する納得感がすごく大切だっていうことを感じた。
やりたいことだとしてもやりたくないことだとしても、そのやり方をただ受動的に受け取って、自分の中で咀嚼しないまま無批判に取り入れるだけでは、その結果が思うようにいかなかったときに誰も責任を取れないし、結果がうまくいったとしてもその再現性はとても低いように思う。
だけど納得のいくやり方を模索して自分なりにアレンジしながら達成した結果に対しては、うまくいってもいかなくても最終的な納得感は高い。アレンジの過程では多少の妥協なりがあるかもしれないし、やりたくないこともやらなきゃいけないんだなって思ったり、案外やらないで済んだりするかもしれない。だけど、そういうこと全部含めて自分の責任になるし、その方がやってて辛い気持ちにならなくて済むんじゃないかなあって。
これは辛い思いをする人が減って欲しいという以上に、自分がこういうことにこれからどう向き合っていくかのために設定した研究テーマだったから、文字にすると当たり前のことでも、自分なりの調査に基づいて自分なりにこういう結論を出せたのはすごくよかった。
とはいえ、論文という体裁にする以上自分が納得しただけではダメで、学術界のルールに基づいて、みんなが納得できるような体裁に整えた上で主張することが求められるっていうのが、私には向いてなさすぎてというか、私のやりたくないことすぎて、これが最初で最後の研究論文になるのだろうなあと思う。それは少しもったいない気もするけど、自分の興味に応じていろんなことを調べて、考えて、こうやって文にまとめて公開してみたり、友達と話したりすることはいくらでもできるから、私にとってはそれで十分だ。
学生最後の春休みは、半年くらい取り組んでいる.ある自治体の地方創生的なプログラム、4月からのSE生活に向けたプログラミングとかの勉強、そしてたくさんの旅行と、これらに伴うたくさんの人間関係についていろいろ考えるみたいな感じで過ぎていきそう。
やりたいことがたくさんあって、だけど一番はだらだら本を読んだり一人で考え事をしたりしたいだけだったりして、今はそういう時間をとるのを忘れがちな生活で、働き始めたらもっと難しくなるんだろうなと思いつつ、たくさん稼いでたくさん遊ぶのも幸せかもしれないし、飽きたら仕事をやめてどこかに行ってしまうのもいいかもしれないし、今は今で私なりに私の時間を過ごしたい。