小説家チャレンジ48日目〜懺悔の日々〜
せんじつ再就職した州の保健機関に「これまでに受けた予防接種の種類」をだすように連絡があった。
カナダに来てもう25年。とうじの医療記録は日本だろうし、しかも50才にもなってそんな昔のこと分かるわけない。
「あ、これキッカケでまた日本のお父さんと話せる!」実家の父とビデオ通話することを思いついた。
じぜんに実家で同居している弟に、用件を連絡「日曜の朝8:30にLINE電話して」という返事。
カナダの土曜5:30pmに、父の元気な顔をみながら、3年ぶり2度目の近況報告。
数年まえ、母は白血病で他界。それまではカナダでどんなにつらいことがあっても、電話で母の声をきくとそのしゅんかん魂が実家に飛んだ。安心して、毎回きゅうに胃腸の調子がよくなり、お腹がグルグルなりだすのが常だった。
男親の父とは、そこまで距離がちかくないけど、やっぱり声やまなざしの中に親ならではの愛情や、思いやりがつたわってきて、まるで温泉につかっているかのように、心も体もゆるみ、あたたまってくる。なんともいえず癒されるひととき。
父とのたのしい会話がおわったあと、私の受けた予防接種をしらべるために、わざわざ物置きから母子手帳を探しだしてくれたという、弟と義妹にお礼のLINEをいれた。
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3年まえ出産直後に自営業が倒産するという、人生最大のマイナス体験。借金のために、赤子と幼児をかかえて、いつ路上に放り出されるかもしれない恐怖に苛まれながら、子育てをしなければならなかった。
外国で家族でホームレスになるかもしれない恐怖。きょう1日をどう生きていいのか、まいにち途方にくれた。朝のめざめが苦痛で、きょうも1日生きなくてはいけないのがとにかく辛い。
夫も私も2年ほどは、不安と恐怖にガッチリとらえられ、正気をキープするのにものすごい精神力と体力を使った。口にはださなかったが、2人とも完全に毎日この生から解放されることばかり夢みていた。
授乳をしながら、徹夜で夫婦2人ぶんのオンライン就活をする日々が、何ヶ月もつづいた。お金がなく育ちざかりの小学生男子をかかえ、つねに食べる物に困った。私はありとあらゆるNPOの食料配給の列にならんだ。
配給があるという話をきいて、遠くの公民館まで行き、ホームレスにまじって30分、1時間ならんでけっきょく質の悪いわずかな食料しかもらえなかったこともある。服や食べものをもらうために、故意ではないがNPOの職員から屈辱的なインタビューを何回もうけた。
10万円の補助金を申請しに、真冬にダウンタウンにあるオフィスに出向き、さんざん待たされたあげく、職員に生活コストや、現状をこと細かく質問され、あまりのじぶんの立場の惨めさに、その場で泣きだしたこともある。
そんなメチャクチャな精神状態で、きょう1日を生きること、子供たちを食べさせること、どうにか仕事を見つけないといけないと、夜もロクに寝ず、目を血走らせていた。
店が倒産する直前には、スタッフに払うお給料がないので、年齢的にカナダの保育園では預かってもらえない、1歳にみたないJJを夫の親戚に何時間もあずけて、私がホール担当をしていた時期があった。
毎日は人にあずかってもらえないので、ベビーシートに入れたJJを店のオフィスにねかせて、夫婦2人だけで店をなんとか回そうとしたこともある。
たまたま昼の忙しい時間に、オフィスでJJが泣きだすことがあった。とうじ経営は危機を迎え、店を失う不安、収入もなく、育児に疲れ、何ヶ月もギリギリに追いつめられていた私たち。
当時はもう限界がきていたのだろう、泣いてる赤ちゃんに『静かにしろ!」と声をあらげたこともあった。
いま考えると親として考えられない行動だが、JJは生まれてからすぐ、そういう異常な緊張感とストレスに包まれて育った。
店が倒産し、私がなんとか見つけた仕事は週5で夜勤。夫ものちに仕事につけたので、彼が仕事終わりにタラちゃんとJJを迎えに行き、夕飯、お風呂、寝るまでの世話を任される。
とうじ私は初めて働く、キラキラした大企業の職場にも仕事内容にもなじめず、かなりストレスがたまっていた。でもお金をもらうには何としてもここで頑張らなければいけない。
のちにムリに移動させられた部署で、女性上司からまいにちパワハラを受け、仕事をやめようかと考えた。でもこの仕事のおかげでやっと家族が少し食べられるようになってきたし、続けるしかない。
いろいろ考えて「この上司に文句を言わせないレベルの仕事内容をすればいい」とおもいつき、そこからは毎日30分早く出勤して、その上司が要求してくる資料を、勤務時間外にあらかじめ用意することにした。
すると徐々に上司からの苦情がへり、とうとう一日中いっさい電話がかかってこなくなった。
それどころか、私の頑張りをみていてくれた他の上司や先輩、同僚が一気にわたしの味方になり、応援してくれる奇跡が起きた。
それまでの人生最大の失敗、日本の家族とは絶縁、職場での疎外感であとかたもなくなっていた私の自尊心が、そこで何年かぶりによみがえった。
人に認めてもらうこと、感謝してもらえること、応援してもらえることが、心の底からうれしかった。久しぶりによろこびとエネルギーが体にみなぎった。
そんな中、私はじぶんの小さな成功体験によって、夜勤で日に2、3時間しかあわないJJの変化にまったく気づかなかった。日々の夫の負担にもまったく気づかなかった。
私が仕事にかまけて調子にのっていた間に、JJはそれまで話せていた言葉を、徐々に失っていった。
いまでもJJとベッドで横になると、大人に話すのと同じ口調で、わたしは4歳のJJに懺悔をする。
お母さんは生まれてからずっと、JJにひどいことをした。
JJは何もわるくなかった。
あなたにひどいことをしてごめんなさい
怒鳴ったり怒ったりして申し訳なかった
お母さんが悪かった、本当にごめんなさい、謝罪します
どうか私のことをゆるして下さい
心から謝ります
イエスさま、マリアさま、日本の八百万の神様、ご先祖さま、せっかくいただいた大事な命を
私は粗末に扱いました
ほんとうにごめんなさい
どうかこの子に言葉を返してあげて下さい
この子から言葉を奪わないでください
悪いのは私です
私が捧げられるものがあったら、なんでも捧げます。犠牲にします
どうか愚かな母親のために、この子を罰するのはやめて下さい。罰するならわたしから何かを奪って下さい。。。
懺悔をするうち、まいかい後悔の涙がとまらなくなる。
きのう夫とJJのことを話していたら
僕も寝かしつけのとき、まいかい同じことやってるよ、と言った