休.

感じ考えるところは日々まあまあの速度で
変わって来ていたしそれが悪くなかった
そこで以前の言葉は急速に、
抜け殻のようで今とは合わなくなって見える
全く繋がりが無くなった訳でも無いのに

それが本当なんだか分からないが
脳が自他を区別出来ないと言うならもし今日
こんな言葉が降ってきたとしてそれが
「(*破壊されずに)」
誰に対しての言葉なのかは結局わからないし
「生きろ」
どうでも良いことなのだ

そっちの言いたいことはわかるけど
こっちのことは、言ったところで通じない
(そういうよくあるやりとりに会うとき)
だからと
急速に言おうとしたことのいく先が無くなり
それも一個の感情が染みており
むかし色した溜池のようでも、あり

それは足止めばかりする

そっちもこっちもなく
完全にむしょうに誰のためでもなく
「(もし破壊したいなら自分がして)創造して
強いて言えば自分で
これで良いんじゃ無いかと思う程度
生きろ
それだったらそも書かなくても良いぐらい
だけど



追記: 昔わたしはこんなようなところで、よく報告をしたいと思っていた。
実際報告することに囚われてしまったこともあった、大してなにも書かなかったけれども、それでも気がとられてしまっていた。だけど今のわたしはそういう気になることが酷く減ったし、言ってみれば昔の思いとは全く違ってしまってた。
報告をすることには否定的な感じが纏わり付き、言葉も出かけては何度も立ち止まってしまうし、なんだかそもそもどうだっていいとも思いがちになった。考えると、そのようになった訳もあって、それはそれで長いだけの物語だ。

そういう昔の今と違う感覚をはっきり掴める時があって、その時と今とを響かせることも出来るのが、考えてみればそれは、自分の証明の一つである様に思う。

自分の証明をする必要があるんだか、わからなくなっているけれども、一つ言えるのは、比較的無邪気だった頃の気分は無くなってしまっても、かっては一方向にだけ思い込んでいて、見えなかったり気づかなかったような任意の事柄も、今はそう決めつけないことで、様々やり様はあるものと気付ける。良いような、悪いようなで、悪いような良いような、で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?