プログラムに気づいたら・それでこーしてあーしてどうなって・そーなの~(途中かも)
自分は相当忘れっぽいから書いておかないとと思う。このことは気分が転換されて紛れた所でまた浮上してくるのだ。だいたいいつも、そんな繰り返しなんだから。
頭の中を整理しておきたい。それだけでしかない。
まず、プログラミングとして発されている言葉について敏感になる。または、気づいたら印をつけるのだ。それからもう少し考えると、これが出てきた理由もしくはきっかけにも思い至る。あのときのー、あれか…。それからさらに…は考えられない。これまでは考えられなかった。さらにさらに…があるのかもしれない。そこまで思い至ると、全部変わるのかもしれない。
しかし、ともかく今言語化できる、ざっくりとした傾向は。「私の」意志でこうしようとやっていることはデフォルトで違うということらしいので、逆方向にしようというプログラム。これだ。
または、どんな考えが私に浮かんだにしても、そしてそれを口に出したところで、それは「私」ではないという。ピログラマーがピロってそうなったのだ。私は消え、ピログラミンが。ぐわーっとアップになる。歌で言うとサビ。歌いあがってくる。立ち上がってくる。
複雑なときもあるし、パターン化されていてそんなに発見に難儀しないこともある。しかしそれはしっかりパン生地の材料のひとつのように練りこまれている。出来上がりのものに、見てわかるところは少なくとも、気づくことはできるのだ。とても、巧妙だ。出来上がったものは美味しげなパンに見えるし、また美味しいかもしれない。でも、そこで終わったようで、終わっていない。
(続きなのかわからない。出てくるままに書いている。)
なんだか結局よくわからない。急に、わかったような気がするときがあるだけ。わかったような気が。
でもふと思う、生演奏と、キカイ演奏は全然違うし、映画と、芝居と違うみたいに、しかも芝居でなく、そこが贅沢な本当に生きた場であったら、私はそれを、遠くに聞いたんだったな。
楽しさを生きている感じが届いた。ぼうっと輝いていたんだ。
ぼんやりと、そうなんだ、と思いながら、確かに、エネルギーが沸き上がってた日があった。なんだが、眠れなくなる、
でも悪い意味ばかりではなくて。そんな時があった。
昔はガリガリ君の梨味とか、つまんないことにいっぱい傷ついていたものだった。ほんとにね。
でも、かわいらしかったな、そんな自分の気持ちは。ずっときれいだった。新鮮だったのかもしれない。
いまはそういうことでは…心が動かないのはいいことでも、悪いことでも、ない。それだけだろう
一昨日でかいバッタが跳ねていた、もう日が暮れてよく見えないみどり。
信じることは、気持ちのいいことだ。けれどもそれでおしまいではない。
理解が進むのは、いいことだ。深みを持つことはいいけれど、理解に吞まれるな。
おもった、すごい勢いで、相手の世界に持っていかれても、自分は消えていないから、そっと、押しつぶされないよう持っていてあげるのだ。なんのために過去があるのだろうか、何のため言葉がある。
間違った言葉で間違った組み立てをしているのに、相手が悪いとケチをつけ、それを治そうとまでする。
こういうことを私もしているのか?そんな態度の相手と、コミュニケーションが成り立つ日はくるのか?
そうじゃない、そうじゃなくてこうだよ。というのを、とっくのとうに諦めかけていて、どうしてそれを言い立てる熱情がないんだろう。いいんじゃないのか、わからないんだったら。私も、わからないことはいっぱいあるから。
無にならないと対象が、真贋がわからないというけど、無になるのは簡単なことだろうか。自分のことでいっぱいになってしまうものではないのか。
TVのなかにちりばめられている過去の破片で自分は半分脱力して、CMには同じ水流の物語。
矛盾したメッセージ。それはじゅうじゅう自覚されている。
追いかけないといけないのは、なんだろう。記憶の中でも、そこにしるしをつけないといけない。
記憶の端切れだ。
家がゆれて、歯ぎしりして、点滅した、努力を無にして切り捨てようとしていたら、そうなった。
異国を旅して夏が厳しくて、グローバルに冷えた空気のコンビニでも、追手のようにイメージがあふれていた。
ここは、純粋な異国ではありえないなと思いながら、歩くのが気持ちがよかった。
また歩きたい、孤独感がなかった。孤独だったが気持ちがよかった。そこにいる人たちのおおらかさ。
ああそうだ、空港のガチャガチャにも、夢がふわりふわりと浮き上がっていた。ぼんやりとみていた。
ベンチに座り込み、自分の不器用さと無知さをいつものように、自覚しながらも無視しなければ、次の場所にはいけない。
動いているかどうかが問題なんだけど。もたついたテクノロジーの装備。これで、自分で自分を追跡可能な魚にする。
みんな自分のことばっかりだな、そこに強引さが加わるとつらいし、何とかならないのかって思う。かたいな、いつも完成されているなと。そうだな。もう道が出来上がっているんだな。いつもの道を通るのをやめるか、
新たな道を作ろうという気が起きるか。そうしたら言葉も、変わるのだろう。
素早いけれども曲がった言葉だと、打ちなおす必要があるともいえるが、最初から曲げる意志があるんだ。
相手を挫き、邪魔したり壊したりしたいとき、言葉にもそういうあえての短絡が見られる。意識的な短絡か、無意識的な短絡か。
全く違う文化のなかで、言葉をありきたりの、文字通りの意味で受け取れないので、いつも、言い換えを脳内でさせられるようだと、時間がかかっていらいらする。わかるけど、しんどいし全部はわからない。
いつだか新聞やさんが持ってきてくれた試読の広告にも、もうこの文化が揺蕩っていた。
木が震えた、いつかの裏庭にあった背の高い木は、薄い金属化した震える声で叫んでいたし、離れたばかりの黄色な葉が空中で身震いしながらゆっくりと踊ってこちらへ落ちてきた。あの木の歌は翻訳できなかった。でも心を奪われた。あの裏庭は好きだった。そこで奇妙に楽しい気持ちになった瞬間を覚えている。
あの木のことを理解していた人間はほかにもいたんだ。別の時代、別の場所だったけど。それがステラだった。
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