答えはいつも同じ様でだったら問うたり悩む労は?

人に会えば、幾つもエピソードに触れる、私の読んだことのない多くの違った本の、思いがけない章がある、と言うことだけわかる。そう言うことが生きた証であり、なぜだかそれを忘れてばかりいる。誰もが、部屋のリノベーションに精を出すのも頷けるわけだった。その部屋で私たちは寛ぐことになるから。見ず知らずの隣人に、もうすぐ深夜だと言う時分簡易ベッドを無表情で準備してくれる親切が、身に余る光栄よりも響き渡るからかえって言葉は少なくなった、忙しかったりきりもみされるような日常にあっても、夢遊病者の快楽にそれとなく浸されて湯を沸かしては茶を啜りながら、ひと時に大急ぎに捩じ込むような雑駁で(豊かな)会話を共にする他者が居る瞬間ごとがそこで描かれるから。どこがどうともなく好きな部屋、知らない人の暮らし、壁にクシャッとかかるバスタオルの無造作な形。そのタオルのストライプ模様が好きに思いいつしか視線はそこへと戻った。夢に、浸される。移動に疲れ切った体にしか産み出せないリズム、差し迫る制限時間さえ忘れる愛おしい処。飛び込むことはなかった多くの、うつくしいドア。あれは、なんだったか。空間の魔法というより、空間をいつしか演出するこころの存在だったらつまりは人だった。私は何をしてる?思い出さなくちゃ、そして思い出しても見てほしいわけだ、地上の楽園と呼べさえする世界を享受した時もあったのに、まるで、茫々とうつけたありようだったと。大事に出来なかったなどと、間抜けなコメントは再び許されることはない。惹かれていながら大事に出来なかった、などというつまらない台詞も要らないのだ。ずっと、退屈で不要だとさえ思っていた類の言葉でもあった。前もって、捨てておくことだ。

後悔などが入り込む隙のないほどの瞬間が続けば良いのだろうか。一つの有望な解決かもしれないし、私はともかく一種気取り続けてこのまま足速に進んでいくのがいい。ナラティブな縛りや強引な切開とは違う、滲み出る何かしらが感じ取れたり味わえたりするものだけに向けて、こうして、こんなふうに。元々それで、良かったんじゃないか。
積み重なったストレスでコントロールを失いかけ、ある日無くした、貴重だった手がかりを振り返るだにわたしには怒る権利もあると思われた、何度も。ただその怒りは自分にも少しばかり多く降りかかった。問題に出来るのはなぜ、と自分のことで、その謎も(こうして生きてきただけでも)少しずつ解明されてきている。集めたヒントが静かな雨のように降りかかった瓦礫のかけら、それら拾い上げれば息付き、暖かく、柔らかく振動した。不気味ではあったがそれも良いだろうと思うことにした。急ぐことだ、今日明日の話程に、急ぐこと。だって、思い出しても見てほしい。嫌なニュースが無力感を掻き立てる、だって?



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