イスカリオテ(裏切者)のマリアとは?シン・エヴァンゲリオンのマリについての考察①
劇場公開された「シン・エヴァンゲリオン」をようやく仕事の休みが取れたので観に行ってきました!
なんと大スクリーンで満員御礼状態で前から2列目に一番端っこの方しか空いていませんで。。。改めて8年待ったファンの方々の熱い想いを目の当たりにしましたね!!では、早速気になったいくつかの考察を書いていこうと思います。
・マリENDの理由とマリの正体について
今回一番驚いたのがマリENDだと…!?!?!ってところの人も多かったんじゃないでしょうか。(今回こそ正統派?ヒロインのレイとくっついて幸せになるとおもってたのに!)
でも改めて考えてみるとこのエンディング凄いんです。マリの正体がどのパターンでも納得できるようになってるんです。
【マリの正体】
・イスカリオテのユダ(裏切者)
・イスカリオテのマティア(新世界の立役者の1人)
・マグダラのマリア(親密な人)
・聖母マリア(母)
・ベタニヤのマリア(友人)
冬月とマリが再開するシーンで、冬月が「イスカリオテのマリア」とマリのことを呼んでいましたね。それに対し「そう呼ばれるのは久しぶりだにゃ~」ともマリは言っていました。
聖書には「イスカリオテのマリア」という言葉は出てきません。イスカリオテは本来地名や村を指す言葉とされています。(「磯部村の太郎さん」みたいなもの)
「イスカリオテ」と「マリア」のワードが出てきたので、そこから両方の意味を含めた造語だということがわかります。
【イスカリオテのユダ としてのマリ】
日本で歴史上の裏切者といえば小早川や明智が思い浮かぶのではないでしょうか。しかしキリスト教圏では裏切者といえば「ユダ」「ブルータス」「カシウス」の3人です。(「聖☆おにいさん」では全員が裏切って地獄に落ちた仲間として出てましたねw)
ユダはイエス・キリストの12使徒の1人で、銀貨30枚でイエスを裏切りローマへ引き渡します。彼は元徴税人であり、経理を担当していましたが、そこでも不正があったとされている人物です。そして捕らえられたイエスは磔刑に処され一度死ぬわけですね。
そこから「イスカリオテ」はそれ単体で、とんでもない「裏切り者」の代名詞として使われれます。なんつっても神の子を裏切ってますから!
ではマリは誰を裏切ったのでしょうか?ここはTwitterでも皆さん考察されていますが…
①ユイの(願いの)ためにゼーレを裏切った
②神への裏切り行為に加担した(シンジの共犯者)
だと思っています。
①ユイの(願いの)ためにゼーレを裏切った
「イスカリオテのマリア」は冬月→マリに投げかけられた言葉です。裏切ったのは元所属していたゼーレと捕らえて矛盾はないと思います。(大学の同期として冬月やユイ、ゲンドウとエヴァ開発当時から一緒に仕事をしていた)
好きだったユイの願い(シンジのいる世界を守りたい)のために、人類補完計画の阻止を目的としゼーレを裏切ります。
聖書との比較
じゃあ、単純に「裏切者のマリ」でよくね?ってなるんですが、ちゃんと「イスカリオテ」の名を冠する理由があります。
聖書ではイエスはユダに「あなたがしている事(裏切り行為)をもっと早くしなさい」と言います。まるでイエスが裏切られることを望んでいるかのような言葉ですよね。ここで考えて欲しいことは、イエスが「一度死んでから復活する」という超人的奇跡を遂げなければ、今日の強大なキリスト教は生まれていないということです。考え方によってはユダの「裏切り」はキリスト教という新しい世界が誕生するのに必要な悪だったといえます。
なので最後にシンジがエヴァンゲリオンのない「新世界」を創り出すためには、物語にとびっきりの裏切り者が必要なんです。
②神への裏切り行為に加担した(シンジの共犯者)
マリの裏切りはゼーレに対してだけではありません。エヴァンゲリオンの最後はさっくり言うと「人は人の意思で神を殺し、神の手を離れて新世界を創った」でした。(きっと解釈は人それぞれですがw)
シンジは神を殺し(神との契約を裏切り)新世界を創った。それにマリは加担し共に神を裏切った。
契約の裏切りと書きましたが、ここで聖書の概念に触れます。キリスト教の信仰に欠かせない聖書とは「なんか聖人が言ってた名言集」ではありません。神の言葉、神と人間の約束事(契約)が書かれているものです。その契約を破棄することにしたのが今回のエンディングです。
……ん?そういえば対の男女が神を裏切る?どこかで聞いたことが……あ、知恵の実を最初に食べて楽園を追放されたアダムとイヴだ!!
そもそも何でエヴァンゲリオンは人間の始まりを「アダムとイヴ(後妻)」ではなくマイナーな「アダムとリリス(前妻)」にしたんだ?とずうっと疑問でした。
旧世界の人間=リリス(夜の悪魔)の子供としての人類であるリリン(超次元的な生命の子供)
新世界の人間=イヴ(アダムから創られた最初の女性)の子供としての人類(現代人)
をここで対比し、エンディングで現代とオーバーラッピングさせたかったのかもしれません。
【イスカリオテのマティア としてのマリ】
・マティアとマリの共通点①:知識欲
ユダは裏切りを苦に自殺し地獄へ落ち、その後にイスカリオテのマティアがユダの後任として仲間入りします。イスラエル12部族にちなんで、使徒は12人必要らしく、くじ引き(神の選定)で選ばれたのがこのマティアでした。あらゆる知識を学び、法律や予言に精通し、徳の高い人物だったと伝承に残っています。
「古今東西のあらゆる書物を読み漁りたい」と発言していたマリと、知識人のマティアは「知識欲」という意味で似ていますね。もしかしたら「新しい世界を見てみたい」という目的もマリ自身の願いにはあったのかもしれません。
というのも、人間の欲求には「知識欲」という新たな知識に対する強い興味・関心があるからです。それは私たちが知恵の実を食べた、知恵の生命体と言われていることからも伺えます。
さて、ここでマリが誰よりも知識欲旺盛にわざわざ描かれているのには意味がもう一つありそうです。先ほどシンジとマリは、男性のアダムと女性のイブのようだと書きました。
聖書では蛇から「神のようになれる」と唆されて、どちらが先に知恵の実を食べたでしょうか?そう、イブ(女性)が先なんですね。そうして好奇心と知識への欲は楽園追放という結果を人類にもたらしました。
・人間的欲求は神をも殺す
ここで少し話がユダの所に戻りますが、人間的な欲求(お金)のためにイエスを裏切るユダと、人間的な欲求(知識欲)のために神を裏切るイブ(マリ)。どちらも等しく非常に人間らしい身勝手な理由です。ここも似てる点ですね。
・マティアとマリの共通点②:新世界の立役者
さて、イエスの死後、ただのイスラエルの新興宗教でしかなかったキリスト教が、使徒達の死にもの狂いの布教によって大陸全土へ広がりを見せます。まさにこのマティアを含めた使徒たちは「キリスト教という新世界」の立役者の1人となりました。(かつてマティアの福音書が存在したとされますが、異端扱いで現在は残ってないためほぼ無名なのが悔やまれる)
キリスト教を全土に広め新しい世界を創った立役者の1人としてのマティア、エヴァンゲリオンのない新しい世界を創った立役者の1人としてのマリ。
ここも共通点ではないでしょうか。
【マグダラのマリア としてのマリ】
聖書や福音書でマリアってめちゃくちゃ沢山出てくるんですよね。ここでは有名なマリア達に触れていきます。
マグダラのマリアは使徒唯一の女性で、この時代以前に男性が女性の弟子を取った記録は残っていません。(イエスの博愛主義の概念のためもありますが)このことから、マグダラという町の裕福で教養のあった聡明な女性だったと考えられています。また福音書では、イエスの生涯に立ち会う女性、イエスの親愛なる女性、として描かれます。
あの有名な映画「ダヴィンチ・コード」では、イエスとマリアは結婚してたーーーー!?ってラストエンディングも作られるくらいですので、新訳聖書の中のヒロインと言って差し支えありません。(各所から怒られそう)
なのでエヴァンゲリオンのマリENDは必然よ!とここで結論が出るんですけど!!まだもうちょっと聖書と比較したいのでお付き合いください(笑)
・親愛の描写
イエスが処刑されてから3日後にマリアはイエスの復活の奇跡を目の当たりにします。この時にいつもはイエスの事を「主」と呼んでいたマリアですが、親愛なる人が生き返るという奇跡を目の当たりにして、思わず「先生(ラボン)…」と口にします。神様と先生ではだいぶ親密度が違いますよね?
・復活の見届け人
イエスの復活という人外的奇跡を通して、キリスト教という新世界は生まれます。そしてそれを目の当たりにしたのはマグダラのマリアです。
それはエヴァンゲリオンでも同じく、虚構宇宙から復活したシンジ(神児)が新世界を創造した事を最も近くで見ていたマリこそが復活の見届け人といえそうです。
【聖母マリア としてのマリ】
・子供に必要なもの
アスカのセリフに「ガキ(シンジのこと)に必要なのは彼女じゃなくて母親でしょ!」というのがありました。そしてマリはシンジの事を「わんこちゃん」と呼びます。「どこにいても必ず迎えにいくよ」とも。
子供というのは親の愛情を必ず欲しがるようにできています。そして母親は無条件の愛を子供に注ぐものという、それこそ聖母的信仰はキリスト絵画だけの中ではなく現代でも残っています。
マリは漫画版で同性愛者と判明しており、映画では愛したユイの子供であるシンジを見つめる写真が話題になりましたよね。それを見て今までのマリのセリフを思い出すと、個人的にはどうしてもヒロイン的な愛情ではなく、無条件で子供を愛する聖母のような愛を感じます。
レイやアスカは結構シンジに対して辛辣だが、マリは一貫してシンジに対して優しいし。(いやまあ映画版カヲル君もだけど…)
なので個人的解釈は、エヴァのある旧世界(映画軸の世界)にはシンジには母親が必要で、その役目をある種マリが果たしていた部分がある。そしてエヴァのない新世界を創って、虚構世界から現実世界へ踏み出し大人になったシンジには母親は必要なくなった。その代わり、居場所としてのマリという存在が残った。としてます。
【ベタニヤのマリア としてのマリ】
ベタニヤのマリアは、姉マルタと弟ラザロという兄弟を持つ女性です。イエスに対して批判的な印象が広がる中、歓迎し家に招いてくれたイエスにとって特別な友人でもあります。
ベタニヤのマリアはイエスが処刑されることをどの弟子たちより先に悟っており、イエスの足に超絶高価な香油をドバドバ注ぎます。それに対しイエスは「僕(しもべ)は主人のやることを知らない。主人のやること(原罪を受けて処刑されること)を知っているのだから、私はあなたを友と呼ぼう。」と伝えます。
・マリはシンジのやるべきことを知っている
レイは「もうシンジ君がエヴァに乗らなくていいようにする」と自らがエヴァに乗りました。カヲルくんは「君だけは幸せにしてみせるよ」と言ってましたね。
見方によっては2人はシンジが現実世界でやるべきこと(責任を取ること)を放棄させてしまいたいように見えます。
しかし、やるべきこと(キリスト教で言えば人間の原罪を背負って死ぬこと)を放棄したら、人類は赦し救われることはありません。
一方のマリにはシンジを「どうしたい」「どうして欲しい」というのは作中で描かれません。(お姫様を助けね!くらい)彼女はシンジがどこに居ても「迎えに行く」し「エヴァには乗らないって決めたんだ!」と言えば逃げるのを手伝ってくれました。
もしかしたら、マリはシンジのやるべき事を最初から知っていて、ベタニヤのマルタのように友として神の子の傍にいるべき存在だったのかもしれません。
まとめ
以上の事からイスカリオテのマリとは、共に神へ反逆した裏切者であり、神の子の母であり友であり親愛なる存在であり、(人間を1人にしないためにアダムからイブが創られたように)人の寄る辺である。と考えています。
なのでラストは単純なヒロイン(彼女)ではないので、そうするとマリENDという言い方もちょっと違和感ですね。
マリはすべての愛を含めたかけがえのない存在として描かれ、2人が新しい世界で互いに手を取り合って生きていく。
「神の祝福のない世界でも、人は互いに手に取って歩んでいける」
これが映画の最後のメッセージだと、私は思います。
エヴァンゲリオンの考察というか、聖書・福音書の話がメインになってしまいました(笑) エヴァのいいところは、考察や解釈を好きに加えて色んな見方が楽しめるところですよね。それこそ正解はなく信仰は人の数だけあるのでしょう。
いろいろと矛盾もあるでしょうが、寛大な御心でおねがいします!
読んでいただき、誠にありがとうございました!