見出し画像

ホグワーツ英語学校

 ハリー・ポッターを読んでいると、魔法使いとして人生をやり直してみたくなる。
 発売してからまだ十年すら経っていないにもかかわらず、世界中の発行部数を合計するとすでに数億冊になっているこの本について、舞台であるイギリスと、英語を中心に話をしてみよう。

 第1作目である『ハリー・ポッターと賢者の石』の原題は 'Harry Potter and the Philosopher's Stone' だが、アメリカ版では「賢者の石」の部分は 'the Sorcerer's Stone' となっている。これは、言葉の慣習の違いからきている。
 英米間の単語の差は他にも沢山あり、例えばliftとelevator、大学での履修単位は module とcredit というふうに区別される。
 ちなみに日本語でハンガーのことを「衣紋掛け」という人がいるが、これは世代の違いである。


 物語に、ハグリッドという森の番人が登場する。優しくて、ぶきっちょな大男だ。ところで、彼の発音にはなまりがある。日本語版の翻訳者である松岡佑子さんは、「彼の魅力である、独特のスコットランド風のなまりを訳しきれないのがつらい」と言っている。映画版を観たことがある人は、彼がぶっきらぼうな感じで喋っているのが分かるだろう。まずは日本語訳をみてみよう。

「出かけようか、ハリー。今日は忙しいぞ。ロンドンまで行って、おまえさんの入学用品を揃えんとな」

 原文ではこうなる。

 'Best be off, Harry, lots ter do today, gotta get up ter London an' buy all yer stuff fer school.'

 これはそれぞれ、

 ter → to
 an' → and
 yer → your
 fer → for

 ということだが、スコットランド訛りが常にこう表記されるわけではない。例えばスコットランド出身議員のコメントが新聞に載るときは、きちんとした英語になっている。ただ、いま挙げた表記は、実際の発音に近づけるために工夫しているわけである。


 余談だが、邦訳を出した静山社という出版社について――。これは松岡さんのご主人が始めた会社で、難病患者のための本などを出していた。
 社名は松岡幸雄氏が登山好きだったので付けたのだが、その後、志半ばにして亡くなった。五十八歳だった。


 松岡佑子さんは同時通訳者として既に著名であったが、ご主人の死後、その遺志を継いだ。ハリー・ポッターの本は、翌1998年に仕事でイギリスに滞在した際、招かれた友人の家で勧められたのだが、一気に読み終えると、「ハリーの魔法にかかっていた」。是非翻訳させてほしいと作者のJ.K.ローリングに手紙を送り、その熱意に感銘を受けた彼女は、静山社の翻訳権を認めたのだった。大手出版社を抑えて作者の心を掴んだ快挙の背景に、圧倒的な語学力があったことはいうまでもない。


 作者にしても、松岡さんにしても、ハリー・ポッターの舞台裏は何かとドラマチックな逸話が多く、それだけでも一編の小説が出来上がりそうだ。ローリングについては、新潮文庫から『ハリー・ポッター誕生 ――J.K.ローリングの半生――』が出ている。

      *

「ハリー・ポッター」の魅力は沢山あるが、そのひとつに、ローリングのstorytelling な書き方がある。母親が読んで聞かせ、「それで、それで?」と子供が続きを知りたがる情景が浮かぶ。

「プラットホーム 9と3/4番線」
 という発想がおもしろい。
 ホグワーツ魔法学校の入学を知らされたハリーは、奇妙な番号のホームから11時に出発する汽車の切符を手にしている。が、駅に着いてもそんな番号は見つからない。思案に暮れていると、9番と10番線の間にある改札口の柵(映画では煉瓦の柱)に向かって進み、いなくなっている人達に気づく。彼らも似たような荷物を持っているし、「9と3/4番線」という声も聞こえる。発車までもう時間がない。見送っている家族の母親らしい人に乗り方を聞いてみよう。

 'Not to worry,' she said. 'All you have to do is walk straight at the barrier between platforms nine and ten. Don't stop and don't be scared you'll crash into it, that's very important. Best do it at a bit of run if you're nervous. Go on, now before Ron.'
 'Er―― OK,' said Harry.
 He pushed his trolley round and stared at the barrier. It looked very solid.
 He started to walk towards it. People jostled him on their way to platforms nine and ten. Harry walked more quickly. He was going to smash right into that ticket box and then he'd be in trouble ―― leaning forward on his trolley he broke into a heavy run ―― the barrier was coming nearer and nearer ―― he wouldn't be able to stop ―― the trolley was out of control ―― he was a foot away ―― he closed his eyes ready for the crash ――
 It didn't come ... he kept on running ... he opened his eyes.
  A scarlet steam engine was waiting next to a platform packed with people. A sign overhead said Hogwarts Express, 11 o'clock. Harry looked behind him and saw a wrought-iron archway where the ticket box had been, with the words Platform Nine and Three-Quarters on it. He had done it.

 映画で撮影されたのは、ロンドンの King's Cross station である。
 語学学校の先生に訊いてみると、夜は危険なところらしい。規模としてこの駅を東京の駅にたとえたらどこになりますかときいたら、「池袋」と返ってきた。北の玄関口という点で、類似している。今となっては「池袋」駅は日中多くの観光客を迎え、映画で登場した柱に「PLATFORM 9 3/4」と記されたパネルが張られている。

 翻訳者の苦労話として、松岡さんは食べものを挙げている。確かに、イギリスにしかないものは知らないし、訳せない。
 knickerbocker glory とは何だろう。先ほど登場したイギリス人の先生によると、
「フルーツ・パフェです。下からいろんな層が重なって、最後にチョコレートの棒が二本刺さっています」
「それなら他のパフェと変わらないんじゃないですか」
「そうですね。でも、ニッカボッカ・グローリーはジャンボサイズなのが特徴なんです。大抵2、3人で食べます」

 sherbet lemon(シャーベット・レモン)は、キャンディだという。この場合の sherbet は粉末のことで、日本にあるようなフルーツ風味のラムネと思われる。
 crumpet はスコーンよりも軽いお菓子で、生地に小さい穴を沢山空けて、その上にバターを塗る。すると焼いている間、バターが穴から中へ染みわたる。
「ふぅ、お腹がすいてきた」と先生は言った。

ここから先は

6,608字

¥ 300

「海外の興味ある国、街から定期的にエッセイ、ルポを発信し、読む方々が精神的に豊かになれる架け橋となる」という生き方を実現するため、そこへ至る過程の"応援金"として、感謝を込めて使わせていただきます。