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もちろん、誰にでも断る権利がある

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もちろん、誰にでも断る権利がある

風船を手放す私 イラスト:nui


「断る」ということは結構ハイカロリーな行動に感じるけど、断ることも大切な自分の人生メイク(ヘアメイク的な私の造語)には欠かせない。

5歳くらいのとき、ばあちゃんと地域のフェスティバルにでかけた。
ばあちゃんは配られていた風船を受け取り、私に握らせてくれた。
実は当時、私が一番恐れていたものは風船だった。バーンと破裂する怖さ、ちりぢりになる切なさ。ほんとうは貰いたくなかった。

でもばあちゃんの懇意を踏みにじることのような気がして、口に出せない。
飛んでいかないようにと私の手に紐を結びつけるばあちゃん、バレないように手放そうと、するする紐を離す私。すぐに赤い風船が高く飛んでいった。

私はホッとしたのも束の間、残念そうに空を見上げるばあちゃんを見てすぐに切なくなった。
(しまった。せっかく喜ばせようとしてくれたのに…)
胸にじわ〜っと苦いものが広がって、罪悪感を覚えた。
これを20年以上経った今でも覚えている。


家族はこの世に生まれて最初に属する集団で、子は大人がいないと、例えば野原に一人ほっぽり出されてしまったら生きていけない。
生存するためには大人の機嫌をとらなきゃと本能的に思うときがある。
だから大人をがっかりさせてしまったら、「まずい」と咄嗟に感じることが多かった。
風船の一件も、見捨てられないか不安だったのだろう。

そんなことを過剰に気にするようになったのには理由があった。
うちの親は、違う意見を全く受けつけないのだ。反発した結果状況が悪くなると、「ほら、言うこと聞かないから」と吐き捨てられた。


私に選択する余地はなかった。
あれしなさい、こうしときなさい、それはやめなさい。
どうしても嫌で突っぱねることがあれば、
「んもう!言うこと聞かない子ね!」
「わがまま娘!」
と地団駄を踏むように言われ、「私はわがままなんだ」と罪悪感に蝕まれた。
断ったり、自分で選択したりせず、なるべく自分を出さないようにすることが見放されず穏便に生きる道だった。

そんなふうに受け身で育った結果、大人になってこんなことがあった。
同年代の男子たちが私について話しているのを耳にしたのだが、

「あの子とは、サシで話したくないな〜」
「わかる(笑)」

と超コミュ障の私とはサシで話したくないと言っているのを聞いてしまった。
悲しいながらも、「そうだよね、わかる」とどことなく納得して受け入れていたのだが、これを友だちに話すと意外な言葉が返ってきた。

「逆になんで、その子たちはあなたが会話してくれると思ってるの?こっちがそいつらと話したいと思ってるとは限らないじゃん。あなたにも、『こちらこそあなたたちと話すのは願い下げです』って、断る権利はあるんだよ!」

その言葉で、ようやく私は大前提が違っていたことに気づいた。

私にも断る権利があるのだ。断ったり、選択したりしていいんだという事実に気づいていなかった。当たり前のように受け入れたり諦めたり、消去法的に受動的な選択をしていたんだ。

風船を離して後悔した幼い私に、「後悔しなくていいんだよ」と伝えたい。
誰にだってNOと言う権利はあるんだよ。非力だからって、嫌なことまで飲み込む必要はないよ。期待に添えなかったからって落ち込む必要はないよ。あなたも、生きてる一人の人間。思うままに、ありたい自分でいるために、取捨選択していいんだよ。

「断る」ことができれば、断られたものは寄り付かなくなる。風船が嫌いだという人に風船を渡す人はいない。そうしてより心地いいものにフォーカスできる人生って自分の幸福に関わるし、それは自分で作っていくべきものだ。

断る権利があることにまず気づくこと。それが心地よい人生メイクにおける大切な1ピースだ。

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