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大事なのは失敗のその先

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大事なのは、失敗のその先

イラスト:nui


実家では一度の失敗でよく怒られた。

4、5歳くらいのとき、おねしょで目が覚めたときのエピソードがわかりやすい。
夜中の2時だった。おねしょをしてしまった私は寒い廊下をトイレへ連れてかれ、そこで突然、パンッとお尻を叩かれた。
びっくりして子どもながらに「なんで叩いたん?」と聞くと、母にこう言われた。

「おねしょしたから」。

たった一言で、理解するのに時間がかかった。
どうやら「おねしょをしたこと」=「失敗したこと」自体が悪かったらしい。
防ぎようがないと思っていたから、どうしたらいいかわからなかった。

この先もまたうっかりおねしょをしてしまうかもしれないのに…その度に「悪い子ね!」ってお尻を叩かれるのか。
ここまで言語化していたわけではないけど、私は呆然とした。
失敗したら、後がない。終わりだ。

そんなこんなで失敗を恐れる大人になった。
親は失敗するとすぐに「もうやめなさい!貸しなさい!」と一喝するから、必然的に挑戦するチャンスは一度きり。
「失敗しちゃダメなんだ」
「失敗の先に成功はない。終わりだ」
「失敗は悪いことなんだ」
と思うようになった。失敗したあとの対処法を教わったことはない。
仕事でも生活の中での小さな判断でも、取りかかる前に失敗する可能性を吟味し、事前に失敗の芽を摘む立ち回りを考える。
それでも回避できなさそうだと思ったら実行をやめてしまうか、あれこれ考えている間にめんどくさくなってやめてしまう。0か100かだった。
上司にはこう評価された。
「フットワーク重いよね」
「0か100をやめろ。ためらわずに、まずやれ。出る杭は打たれるものだ。失敗を恐れるな」

自責や不全感、社会不適応感で仕事を辞めたあと、メンタルについていろいろ調べた中でようやく家庭内での経験が原因だと気づいた。
私は失敗を恐れている。失敗は悪だと勘違いしている。
1年に一回の帰省で母と映画を観に行ったときのエピソードから、私はそれをようやく言語化できるようになる。

ネット購入したチケットを映画館で発券しようとしたとき。まだ発券機が導入され始めた時期だったから、母と二人でタッチパネルに手こずった。
どこをタッチするんだろうと二人で迷っているとき、私はトライアンドエラーの気持ちで目ぼしいボタンをタッチ。すると母は非常に大きな声で、
あーっ!違うって!貸しなさい!
と腕で私を押し退けた。まるで二度と取り返しのつかないことをしてしまったかのように。

ああ、これか。これが私が失敗を恐れる根源だったんだ。ここにあったんだ。少しのショックと、気づいた驚きがあった。
何せ母とともに過ごした19年間、これが当たり前だと思っていたから、ここが根っこだとは思いもしなかった。

気づいたことで、おねしょをした幼い私が救われる。

「大丈夫だよ。次からは寝る前にもう一回トイレに行っておこうね」という言葉をかけてあげる。

失敗したって、死ぬわけじゃないのだ。
映画の発券機が爆発して死ぬわけじゃない。大抵のことはリカバーできる。
大事なのは失敗のその先なんだ。失敗の原因に気づいて対処すれば、成功に近づくし自信になる。その「対処」の段階をすっ飛ばしていたから、失敗したとたん「終わり」になってしまう。

それを私は教わらなかったから、挑戦を求められる社会生活で必要以上にビクビクしていた。

失敗を恐れる人にはきっと「失敗は悪」という刷り込みがある。失敗は出来が悪い証拠、ダメなやつ。
じゃ、偉人たちは一回も失敗しなかったのか?違うはず。ハードル走で手前のハードルを倒してしまったらもう進めず立ち尽くすしかないのか?それも違う。

命に関わること以外は大したことないから、たくさん失敗すればいいと思う。小さいハードルを越えられるようになるから、次に大きいハードル、その次に大きいハードルが越えられるようになる。

たくさん失敗していこう。
その度に攻略方法を身につけよう。
そうやってたくさん失敗して学ぶ自分を、思いっきり褒めよう。



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