見出し画像

【イラストエッセイ】苦しみのほどきかた


はじめに

苦しかったことがたくさんあった。
あまりに自分が周りと違いすぎて、社会生活を海に例えるなら、泳ぎ方を知らない魚のように毎日溺れていた。

息苦しい。泳ぎ方、生き方を知りたい。

私はたくさんの網や糸に絡まっているようだった。それは「固定観念」とか「認知の歪み」、「歪んだ自己認識」というものだった。
自分を縛る固い結び目をほどくように、一つひとつ解いていく必要があった。

本を読んで、知識系のYouTubeをたくさん観て、なんで自分が生きづらいのか、なんでわざわざ生きづらい考え方をするのか、固い結び目の絡まり方や緩く引っ張れそうな部分を見つけたい一心で、手当たり次第読んだり視聴したりしていくと、あることに気づいた。それは、

楽に生きられるかどうかは、「考え方」と「知識」に左右される

ということ。なんでこれを知らなかったんだろう!
私の周りにも苦しそうに生きている人が何人もいて、みんな似たような考え方をしていた。似たようなことで苦しんでいた。そしてその考え方こそが、自分を縛っている結び目であることに気づいていなかった。結び目が解けた今、私は多くの人にそのほどき方を伝えたい。足枷が外れることで浮力が湧いて、自由に泳ぐことができる。

私が生きづらい性格になったエピソード、それを紐解いて修正できた方法。
この過程を伝えればもしかしたら救われる人がいるかもしれない。いつしか、エッセイを作りたいと思うようになった。

どんな人でも生きやすく、幸せになる力を持っている。そんなことをこのエッセイでは伝えたい。


「趣味:落ち込むこと」だった

イラスト:nui


私は「落ち込むこと」が趣味であるかのように、いつもそっちへ走っていた。

すぐに落ち込んで、坂を転がるように奈落の底までとことん落ち込む。今思えば、それが一旦気持ちをリセットする役割も果たしていたのかもしれない。落ちるところまで落ちればあとは上がるしかないから。

でも、落ち込んで泣いて、それが解決に繋がったことがあっただろうか。

ただ落ちていくだけだ。落ち込んで苦しんで、そこに気持ちをもっていってるのは誰でもない自分だった。無意識に奈落の底へのレールを敷いている。むしろそうしないといけないんだと思っていた。すごくすごく自分を責めて転落させないと、罰を受けないと許されないんだって。今思えば一種の儀式だったのかもしれない。

「もっと腹から声を出しなさい」
「もっと積極的になりなさい」

これは10代から20代前半にかけて学校でも職場でも幾度となく言われ続けた言葉だけど、私には「腹から声を出せない」「積極的になれない」理由というかバックグラウンドを持っていて、

「気持ち悪い声」
「お前は黙っとけ」

と刷り込みのようにいつも家族から言われていた言葉がフラッシュバックしては、
「こんな言葉をかけられ続けたからだ」
「だから私は社会でうまくいかないんだ」
と落ち込んで家族を憎んだ。
落ち込んで憎んで終わり、そのことを繰り返した。
ゲームでいうと同じステージで同じ敵にやられて、また同じ戦法で挑んでやられて、いつまでもステージアップできない状態。

「落ち込む」選択肢ばかりを選んでいるなんて、人生のRPG下手すぎやしないか。物語が進まないのも当然。ハッピーエンドルートじゃないなら、別の選択肢を選ぶ必要がある。

私は自分に聞いてみた。
「本気で自分を幸せにする努力、してる?」
…してない。そう気づいてからは落ち込むのをやめた。

私はコンプレックスを克服して社会生活でちゃんと人と関われるように、手始めに人間観察を始めた。
元気で社交的で、仕事もできる職場のAさんを観察して気づいたことは、「物事の捉え方が違う」ということ。同じ事柄に直面して私が大袈裟に傷ついて捉えたことも、一方のAさんはノーダメージ。私だったら「やっぱ私はダメだ…」と思うことも、Aさんはそこまで捉えない。

自分の考え方が極端だと気づいた。間違いを指摘されたら人格を否定されたと思うし、少し失敗したら私はやっぱりダメだと思う。傷つかないように自分発信で何かをすることもなく他力本願で、人から声をかけてもらうのを待ち、責任を負わないように「あの人がこう言ってて…」と人の発言を引用し、声が小さいから少し聞き返されただけで「間違ったこと言ったかな」と狼狽える。
聞き取ってほしい。こう捉えてほしい。こう言ってほしい。同情して慰めてほしい。そんな人任せで受身な自分に気づいて嫌悪した。これも家族のせいかというと、悲しきかな、そうではない。

長い間家族から言われてきた言葉が元凶だったとしても、今更どうしようもない過去を呪い続ける以外に、自分にはできることがある。

捉え方を改めて、自分で人生を選ぶ。
幸福になる努力を自分でする!

私が攻略すべきダンジョンはだいぶ初歩的で、人よりいっぱいある自覚があった。だから人と比べるのもやめた。同じエリアで出会ったキャラも、一緒に進んでるように見えて実は私が見たこともないようなエリアをすでに攻略しているかもしれないし、私がまだ持っていないアイテムを揃えていてそもそもステータスが違うかもしれない。そんな土俵の違う他人と自分を比べるのはやめた。
昨日より今日、先週より今週、先月より今月、去年より今年、できたことを紙に書き出した。過去の自分と比べるとちょっと嬉しくなる。だって絶対何か一つ成長しているから。

「もう家族のせいにしない。今私がしている行動は全て家族じゃなくて自分の選択、自分の責任」
「何か指摘されても、人格を否定されたと捉えない」
「1日1回、職場の人に話しかけて談笑する」
「私の言うことは間違っているという思い込みから、ボロが出る前に急いで会話を終了させるということに注力してきたけど、それは相手を傷つけ不安にさせる可能性がある。一往復でもいいから会話のラリーを増やす」
「かしこまりすぎないで、雑談感覚で仕事の相談ができるようになる」

初歩的だけどそうやって一つひとつダンジョンをクリアして今ここにいる。

「落ち込む」選択肢を選ばないようにしたら、RPGはサクサク進んだ。
今まで「落ち込む」ことだけをこねくり回していたんだ。
ステージ1を永遠と繰り返すことを趣味のようにしていたんだ。

気持ちが落ちることはあっても、もう落ちることだけに時間を使わない。
「ニーバーの祈り」を知っているだろうか。

神よ、変えられるものについてはそれに立ち向かう勇気を、変えることのできないものについてはそれを受け入れる落ち着きを、そして両者を見極めるための賢さを、私に与えたまえ

ラインホルド・ニーバー“平安の祈り(Serenity prayer)”


明日雨が降ることを変えようと思うのは愚かだって、誰にでもわかる。なすすべもなく落ち込んだりしないで、雨天決行にするか、雨天中止にするか、代替案を用意するか、みんな自分で選択して行動するだろう。目の前の出来事もそうだ。どうしようもないことを変えようとして落ち込んでいては何も進まない。
「趣味:落ち込むこと」をやめたら、私の人生は大きく進んだ。
今や人と普通に話せるようになって仕事も捗っているし、愛する人と出会って結婚もできた。

▶︎落ち込む
▶︎挑戦する
▶︎一旦引き返してまずレベルアップする

一番上の選択肢だけは、もう選ばない。


自分が嫌いなのは、自分を知らないから


今より若いときの私は、とにかく私が嫌いだった。
「嫌悪」という言葉がぴったりくるくらい、見た目も考え方も行動の結果も失敗も何につけても生理的に無理だった。

「ほんとうはこうありたいのに、どうしたらいいのかわからない」といった具合に、ロールモデルはあるけど頭や体がそこを目指した考え方や行動を知らないから、うまく自己実現することができなかった。

例えるなら、高橋愛ちゃんみたいにおしゃれな人になりたくて目指しているのに、なぜか自分には合わないオーバーサイズやぴちぴちすぎる洋服をわざわざ選んで着ては「似合ってないよ〜、こんな格好ダサいし恥ずかしいよ」と自信をなくすようなことを繰り返していた。

どうして服選び=行動が下手だったのか。それは自分自身の【サイズ】を知らないからだった。

自分のことを知らないから、自分が心地いいと感じるものや、自分に足りないものがわからない。だからそれにフィットするものが選べなかったのだ。ぎゅうぎゅうの服に無理矢理袖を通そうとしたり、長すぎるズボンの裾を引きずって歩いたりして、そんな自分に嫌気がさしていただけで、心地よく似合う服を身につければ自分を好きになることはできる。

自分を知らなければ、自分を変えることもできない。イオンモールの中で目的地に辿り着くためには、まず大きな案内図の中で現在地を確認するのと一緒で、自分の欠損はどこにあるかとか、自分の何をどう変えたいのかとか、まずは自分の【現在地】を知ることが大事だ。

私は声がコンプレックスだった。
幼少期からずっと、兄から「声が気持ち悪い」と言われ続けて、私はそれを鵜呑みにしていた。

きっと誰が聞いても、クラスメイトも先生も初めて会う人もみんな私の声は気持ち悪いと思うんだろうと思い込んでいた。また気持ち悪いと言われることを恐れて、すごく小さな声で抑揚なく喋るようになった。自分でその喋り方を選択している割には、自分の声を好きになることは全くなかった。

一体何が気持ち悪いのか、どういう喋り方をすれば相手に心地よいと感じてもらえるのか、自分の声を研究してみることにした。これが自分の【サイズ】、【現在地】を知るということになる。
するとわかったことが2つあった。
一つ目は、誰からの評価を受け取るかを見極めるべきということ。「お前はMサイズだ」とか言われても実際にはSサイズなんだとしたら、その声は受け取らなくていい。兄からの「気持ち悪い声」という評価は受け取らなくてもいいものだった。他人からも声については言及されることが多いけど、よくよく考えれば兄以外で「気持ち悪い」と言ってくる人はいなかった。むしろプラスの感想が多く、「落ち着く」とか「声優になれるよ」とか言われることが多かった。
とある実験で「シロクマのことを考えないでください」と言われた被験者が一番シロクマのことを覚えていたように、気にするがあまり兄の言葉を何度もリフレインさせて刷り込ませていたのは誰でもない自分だった。実際に自分の声を録音して聞いてみると、最初こそ身震いしたけど、慣れてくれば気持ち悪いと言われるほどの声ではないなと思えた。

二つ目は、改善とフィードバックを重ねれば自分を理想に近づけられるということ。
何度も喋りを録音して、何度も聞き返して、もうちょっと低く声を出してみようとか、もう少し口を大きく開けて速く喋ってみようとか、その度に気づいたことをやってみては聞き返してを繰り返した。前よりはどもったり詰まったりしなくなったし、聞きやすいくらいのスピードにアップしたし、声を上げて笑えるようになったし、何より自分の声が好きになれた。新卒の頃は先輩上司から「聞こえない」「お腹から声を出して」と言われていたけど、今は「よく通って聞きやすい声だね」と言われる。
遥か遠くの目的地まで辿り着けたと思う。「よくここまで来たね」ってもう見えなくなってしまったかつての【現在地】を振り返りながら、私は私を好きになることができた。

自分が嫌いな人は、自分という人間のサイズと現在地を知ろう。サイズというのは大きい小さいとかではなく、胸囲や胴囲などを組み合わせたシェイプ、シルエットの方がイメージに近い。そして自分サイズにフィットして心地が良いもの、つまり環境や価値観、立ち振る舞い方を選ぶ。自分が一番素敵に見える行動をとる。そうするといつの間にか目的地、理想にたどり着いている。
自分の行動で理想に近づいていくプロセスを味わうことは、自分を肯定するのに十分な要素になりうる。筋トレをすることは自己肯定感を上げることにつながるらしいけど、これは目に見えて体型が変わり理想に近づいていることが視覚でわかるかららしい。

「いつか自分を好きになりたい」では好きになれない。能動的に「自分を好きになる行動をとる」ことが、自分という人間に対しての作法だと思う。

もちろん、誰にでも断る権利がある

イラスト:nui

「断る」ということは結構ハイカロリーな行動に感じるけど、断ることも大切な自分の人生メイク(ヘアメイク的な私の造語)には欠かせない。

5歳くらいのとき、ばあちゃんと地域のフェスティバルにでかけた。
ばあちゃんは配られていた風船を受け取り、私に握らせてくれた。
実は当時、私が一番恐れていたものは風船だった。バーンと破裂する怖さ、ちりぢりになる切なさ。ほんとうは貰いたくなかった。

でもばあちゃんの懇意を踏みにじることのような気がして、口に出せない。
飛んでいかないようにと私の手に紐を結びつけるばあちゃん、バレないように手放そうと、するする紐を離す私。すぐに赤い風船が高く飛んでいった。

私はホッとしたのも束の間、残念そうに空を見上げるばあちゃんを見てすぐに切なくなった。
(しまった。せっかく喜ばせようとしてくれたのに…)
胸にじわ〜っと苦いものが広がって、罪悪感を覚えた。
これを20年以上経った今でも覚えている。


家族はこの世に生まれて最初に属する集団で、子は大人がいないと、例えば野原に一人ほっぽり出されてしまったら生きていけない。生存するためには大人の機嫌をとらなきゃと本能的に思うときがある。だから大人をがっかりさせてしまったら、「まずい」と咄嗟に感じることが多かった。風船の一件も、見捨てられないか不安だったのだろう。

そんなことを過剰に気にするようになったのには理由があった。
うちの親は、違う意見を全く受けつけないのだ。反発した結果状況が悪くなると、「ほら、言うこと聞かないから」と吐き捨てられた。


私に選択する余地はなかった。
あれしなさい、こうしときなさい、それはやめなさい。
どうしても嫌で突っぱねることがあれば、
「んもう!言うこと聞かない子ね!」
「わがまま娘!」
と地団駄を踏むように言われ、「私はわがままなんだ」と罪悪感に蝕まれた。
断ったり、自分で選択したりせず、なるべく自分を出さないようにすることが見放されず穏便に生きる道だった。

でも、大人になってこんなことがあった。
同年代の男子たちが私について話しているのを耳にしたのだが、

「あの子とは、サシで話したくないな〜」
「わかる(笑)」

と超コミュ障の私とはサシで話したくないと言っているのを聞いてしまった。悲しいながらも、「そうだよね、わかる」とどことなく納得して受け入れていたのだが、これを友だちに話すと意外な言葉が返ってきた。

「逆になんで、その子たちはあなたが会話してくれると思ってるの?こっちがそいつらと話したいと思ってるとは限らないじゃん。あなたにも、『こちらこそあなたたちと話すのは願い下げです』って、断る権利はあるんだよ!」

その言葉で、ようやく私は大前提が違っていたことに気づいた。

私にも断る権利がある。断ったり、選択したりしていいんだという事実に気づいていなかった。当たり前のように受け入れたり諦めたり、消去法的に受動的な選択をしていた。

「断る」ことができれば、断られたものは寄り付かなくなる。風船が嫌いだという人に風船を渡す人はいない。そうしてより心地いいものにフォーカスできる人生って自分の幸福に関わるし、それは自分で作っていくべきものだ。

断る権利があることにまず気づくこと。それが心地よい人生メイクにおける大切な1ピースだ。


大事なのは、失敗のその先

イラスト:nui

実家では一度の失敗でよく怒られた。

4、5歳くらいのとき、おねしょで目が覚めた。
夜中の2時だった。おねしょをしてしまった私は寒い廊下をトイレへ連れてかれ、そこで突然パンッとお尻を叩かれた。
びっくりして子どもながらに「なんで叩いたん?」と聞くと、母にこう言われた。

「おねしょしたから」。

たった一言で、意味がわからなかった。
「おねしょをしたこと」=「失敗したこと」が悪かったらしい。でも、おねしょはどうしようもできないでしょ?とどうしたらいいかわからなかった。

この先もまたうっかりおねしょをしてしまうかもしれないのに、その度に「悪い子ね!」ってお尻を叩かれるのか。ここまで言語化していたわけではないけど、私は呆然とした。
失敗したら、後がない。終わりだ。

そんなこんなで失敗を恐れる大人になった。
親は失敗するとすぐに「もうやめなさい!」と一喝するから、必然的に挑戦するチャンスは一度きり。
失敗しちゃダメなんだ、失敗の先に成功はない、終わりだ、失敗は悪いことなんだと思うようになった。失敗したあとの対処法は教わってこなかった。
仕事でも生活の中での小さな判断でも、取りかかる前に失敗する可能性を吟味し、事前に失敗の芽を摘む立ち回りを考える。
それでも回避できなさそうだと思ったら実行をやめてしまうか、あれこれ考えている間にめんどくさくなってやめてしまう。0か100かだった。
上司にはこう評価された。
「フットワーク重いよね」
「0か100をやめろ。ためらわずに、まずやれ。出る杭は打たれるものだ。失敗を恐れるな」

自責や不全感、社会不適応感で仕事を辞めたあと、メンタルについていろいろ調べた中でようやく家庭内での経験が原因だと気づいた。
私は失敗を恐れている。失敗は悪だと勘違いしている。
1年に一回の帰省で母と映画を観に行ったときのエピソードから、私はそれをようやく言語化できるようになる。

ネット購入したチケットを映画館で発券しようとしたとき。まだ発券機が導入され始めた時期だったから、母と二人でタッチパネルに手こずった。
どこをタッチするんだろうと二人で迷っているとき、私はトライアンドエラーの気持ちで目ぼしいボタンをタッチ。すると母は非常に大きな声で、
「あーっ!違うって!貸しなさい!」
と、まるで二度と取り返しのつかないことをしてしまったかのように私を強く押しのけた。

ああ、これか。これが私が失敗を恐れる根源だったんだ。ここにあったんだ。少しのショックと、気づいた驚きがあった。
何せ母とともに過ごした19年間、これが当たり前だと思っていたから、ここが根っこだとは思いもしなかった。

失敗したって、死ぬわけじゃない。映画の発券機が爆発して死ぬわけじゃない。大抵のことはリカバーできるし、成功するまで挑戦すればそれは失敗ではなくなる。その「対処」の段階をすっ飛ばしていたから、失敗したとたん「終わり」になっていたのだ。

失敗が失敗でなくなるまでトライする。失敗は恐怖ではなく成功の資源。そのサイクルを繰り返せばいち早く成功できるから、私は高速で失敗することを意識して生きている。



あなたを苦しめるのは育った家庭の価値観かも

イラスト:nui

YouTubeで若い夫婦と小さな息子さんのチャンネルを見つけた。息子さんは「坊や」と呼ばれている。
おとぎの世界が気になるような感覚で、「家族」という集団がどんな形であれば健全なのか知りたくて見ている。

ある回で、坊やくんが朝ごはんを作るシーンがあった。
「ぼくやる!」
と率先してホットケーキをつくる。小麦粉や混ぜたタネをこぼし私はひやひやした。無意識に「これは怒られる」と思ったから。
『こんなに汚して〜!』
『あー違う違う!もう貸しなさい!』
という親の声がフラッシュバックする。
私がこのチャンネルのご両親だったら、挑戦する坊やくんにむかって「タネをこぼさないようにね!気をつけて!」と心配して声をかけるだろう。

予測とは裏腹に、若いご両親は坊やくんのことを注意するどころかむしろたくさん褒めた。多少こぼしても、「上手〜!」「いいじゃん!」「すごいね!」と褒めまくっていて衝撃だった。
このご両親は、きっと息子さんには完璧な結果を求めていないんだろう。

それに私の中の完璧主義がまだ根を絶やしていなかったのが驚きだった。
他の家の子が材料をこぼすのすら気になる。これが私の「ふつう」。部屋に新聞紙を敷いてその上で髪を切ったって「こんなに髪の毛落として!」と怒られる。砂糖を入れすぎて失敗した手作りりんごジャムが硬化して木ベラに張り付いたら「これもう捨てるしかないよ!こんなにダメにして!」と怒られる。温めて溶かせばいいじゃん、とその後きれいにこそげ落とした木ベラを見せると親はダンマリした。どんなに修復可能なことでも怒られる。これが私の日常だった。

暴力もない、ネグレクトもない、いたって普通の家庭なのに何か苦しい。居づらい。親を好きになれない。
そんな人がいたら、この「当たり前の罠」にはまっているかもしれない。
顕在化しにくい問題があるから、「普通の家庭なのに…育ててもらったのに…なんで苦しいんだろう、私は親不孝なのかな」と苦しんでしまう。当たり前の罠は気づきにくい。空気のようにわざわざ気にも留めないからだ。

どんなに一生懸命な親でも、過干渉・否定・子を信用しない・羞恥心を煽る・感情的で論理が破綻している親は毒親なので、今すぐ離れた方がいい。

「自分の子どもに同じことを繰り返さないようにしよう」と思うなら、そんなあなたに育てた親の教育はある意味成功したのかもしれない。私はその点で親を赦した。
価値観はアップデートできる。何かおかしい、苦しいと思ったら、価値観から見直して適応的にアップデートしていこう。

自分軸で生きるってどういうこと

イラスト:nui

とある動画配信サービスのオリジナル番組で、一人の男性が多くの女性の中から運命の相手を見つけるという恋愛リアリティ番組がある。あるシーズンで、選ぶ側の男性が常にこんなことを言っていた。

「家族を大事にしている人がいい」。その方自身が家族を大事に想っているからで、同じ価値観の人がいいという意味だったと今ならわかる。

でも当時の私はショックを受けた。
「家族を大事にできないと結婚しちゃいけないの?」
家族に傷つけられてどうしても大事にできない私は、これから自分の家族を作るという選択肢まで奪われてしまうのかと思った。


家族に関しては今までもいろんなことを言われてきた。
「たまには連絡したら?」
「きっと寂しがってるよ」
「仲良くしたらいいじゃん」
「家を出るまでは大切に育ててくれたんでしょ?」
「お金は工面してくれてるんでしょ?」
「大人になったら仲良くなるよ。そういうものだから」


全部文字通り一蹴したくなる。彼らはどうにかして彼らの「型」に嵌めようとしてくる。彼らの納得する返事をするまで問い詰めてくるし、理想の形から外れるそんな恐ろしいものの存在は認めないぞという勢いさえ感じた。一生懸命説明して、それでもわかってくれなかったとき、初めて私は思った。

「誰かを納得させるために生きてるんじゃない」

今までは他人を納得させて自分を認めていた。

褒められたか、役に立ったか、受け入れてもらえたか。それは他人軸で生きていることになる。他人軸で生きているからこういう悲しい気持ちになる。
自分がこれでいい、と思ったらそれでいいのに。それが自分軸というものだと気づいた。

モーパッサンの「紐」というお話を知っているだろうか。
道端の紐を拾った農夫が、その姿を見ていた町の人から「財布を拾って懐に入れていた」と濡れ衣を着せられる話。

のちに無実だったとわかりほとぼりは冷めるけど、農夫は濡れ衣を着せられひどい仕打ちに遭ったと町の人たちに話して周り年月が流れる。

農場は荒れ、床に臥した農夫は最期の時まで紐を握りしめ、紐のために人生を無駄にしたことに嘆きながら息を引き取ったという。
弁明し、他人を納得させる時間がいかにもったいないか気づかせてくれる話。


「家族を大事にしてる人と結婚したい」も、「家族を大事にできない理由をわかってくれる人と結婚したい」も、どちらも尊重されるべき価値観。棲み分けをして、ただその事実を受容すればいい。お互いを納得させる必要はない。

誰かが納得しなくても、自分がいいと思えばいいし、分かり合えない者同士弁明する時間は勿体ないしする必要はない。納得できなくても「あなたはそういう価値観なのね」と認め合えばいい。だから誰かの価値観に振り回される必要もない。

自分の信念、心地よいもの、こうありたいと思う生き方に沿って選択・判断すること。それが自分軸で生きるということなんだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?