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「共=コモンズ」を取り戻す
東日本大震災から、10年。
この時期を迎えるたびに毎年思い出し、今年もやっぱり浮かび上がってくるのは、「共」というキーワードです。
社会には「公=public」「共=commons」「私=private」がある。三者のバランスが整って初めて、安定した世界が続いていく。でもここ数十年は、「共=commons」がどんどんなくなって、「私=private」と「公=public」ばかりが大きくなっている。
そんな中、「何かあったとき」に頼れるのが、企業や政府だけじゃちょっと怖い、と思うのは、私だけじゃないんじゃないか、と。
共産主義は「共」のためではなく「公」の肥大化政策だったから失敗した。新自由主義は「私」の肥大化。その歪みも、すでに社会のいろんな場所に現れている。
衣食住はすべて、作るものではなく買うものになり、少し前まではどの社会にもあった「共」が、なくなりつつあるの、、、ほっといていいんだっけ?
町の祭り、子ども会、餅つきや醤油搾り。
裏山の竹林整備、屋根の茅葺き作業。
誰のものでもない相互扶助の仕組み。
便利さを手に入れるのと引き換えに、みんなでんな「時間と場所の共有」を手放したことが、社会の脆弱さにつながってない?いま東京のような大都会を震災が襲ったら、私たちは支え合い、生き抜き、立ち直ることができる?
民主主義の根っこは「共」に対して皆で責任を持ち、働きかけていくこと。
政治も衣食住も「公」や「私」に任せ、うまくいかないと文句だけは言う消費者としての自分は卒業したいと、あらためて思います。
衣食住の手作りと、エネルギーの自給。「私の子ども」だけでなく「私たちの子どもたち」を共に育てていくこと。
今の時代、それ以上にラディカルな行動を、私は他に知りません。
そして、震災から10年。幸せに敏感な友人たちは、すでに少しずつそれを形にしている気がします。
コンポストから土づくり。畑でできる季節の野菜。
漬け物。果実酒。毎朝のパン。手作りジャム。
手前味噌。自分で搾る醤油。
自然素材でする染め物。
省エネと、少しの自家発電。電気は買うなら再生可能エネルギー100%で。
「お母さん今日遅いの?じゃあ、うちで夕飯食べてく?」「今度うちの子と〜に遊びに行くよ。一緒に行こうか」という声かけ。いざというときに預け合いができる安心感。
衣食住と地域の子育てを少しずつ自分の手のなかに取り戻すこと、大事。 同時に、何でも全部自分でやらなくていいって覚えておくのも、大事。
この10年間、町の中で「食べる、作る、遊ぶ」を広げてきた。その中で、人は一人じゃ生きていけないことがわかるようになってきた。
自然があって、地域社会があって、それで初めて自分が「生かされている」という感覚が、自分を満たすようになってきた。
生産と消費の距離を縮めて、暮らしを少しだけ自然の時間にシフトすることで、世界に働きかけることができる。自給自足が難しいものは「友産友消」してみれば、毎日が幸せに彩られる。
そして、そういう暮らしかた、生きかたの積み重ねこそが、実は災害時にも何よりの備えになる。災害バッグの中身なんて、補助的なものに過ぎない。
さらにいうと、それは、新しい話でもなんでもない。
土地の皆で「時間と場の共有」を重ねる暮らし、そこから生まれる安心感や幸せは、ずっと昔から、世界中のどこの共同体にもあったものだった。それをちょっとだけ、自分たちの手の中に取り戻して行こうよ、という話。
日本にも、もちろん。
世界でも当時、群を抜いて「公」や「私」といいバランスで「共=コモンズ」が機能していた時代がありました。
江戸時代の専門家の田中優子さんと辻さんの対談本、「降りる思想」(大月書店)、思考の整理におすすめです!
CSA(ommunity Supported Agriculture: 地域支援型農業)のほかに、CSF(Community Supported Fishery/Forestry)、つまりコミュニティが支える漁業や林業もあっていい。これからは生産者と消費者なんていう区別をやめて、みんなが共に恩恵とリスクを抱えこむ。それが本来のコミュニティなんじゃないでしょうか。 by 辻信一 「降りる思想」
「コミュニティの再生」とか「絆をつくる」じゃ、何かおかしい。共同体とかコミュニティというのは、本来はただ近くに暮らしているという意味ではありません。共にものをつくっているという状態です。生産現場を共にして、それこそ運命を共にして生きるのが本来の共同体なわけです。 by 田中優子 「降りる思想」
江戸時代には恩返しだけでなく「恩送り」があった。
考えてみると「恩返し」というのはコストに近い考え方ですね。何かもらったらそれに見合うものを対価としてお返しするのが交換ですが、本来は単なる交換ではなかったはずの「恩返し」もだんだん、交換と経済の土俵の上に引きずりこまれていきました。 by 辻信一 「降りる思想」
●「降りる思想」
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