母方の祖父母:厳しさと優しさのまなざしの中で
家族のことを書いてみようと思う。記憶を頼りに書いていく。記憶があいまいなところ、あやふやに覚えていることもありそうだ。それでも書き残してみたい。正しさよりも、もっと別の思い、懐かしさや優しさをよりどころにして。
厳しい祖母と片付け上手な祖父
母はナゴヤ球場のそばで育った。母方の祖父は名古屋港のそばで働き、祖母はお茶の先生だった。私が生まれた当時はきっともう、祖父は仕事をとうに引退して、祖母はお茶の先生を続けていたと思うが、よく可愛がってくれた覚えがある。
祖母はお茶の先生らしくびしっと厳しいイメージ。曲がったことが嫌い。祖父は穏やかな性格で歩くのが好き。よく私と弟を連れて出歩いていた気がする。そして無類の片付け好き。私も壊滅的に片付けが苦手だが、母も片付けられない人で、祖父が私の家に来ては、ぷんぷん怒りながら片付けていた。
祖父母と過ごした最初の記憶
私には年子の弟がいる。弟が生まれるから、と私は祖父母に預けられた。生まれる前からだったか、生まれた後からだったかは覚えていない。当たり前にそうなんだとずっと思っていた。でも振り返ると、ちょっと寂しかったのかな、と当時の自分の心情を推し量る。
祖父母は決して意地悪をしたわけじゃないし、むしろ本当によく面倒を見てくれた。それでも私はきっと母といたかった。でもそれを表現できるほど、成長していなかった。わずか1歳7~10カ月ぐらい。ただ、目の前の状況を受け入れて、必死で生きていくしかなかった。
厳しい印象の祖父母だったけど、幼少期にたくさん遊んでもらったり、小中学生になってからもお年玉をもらったり。お出かけしたこともたくさんあった。祖父母との交流は幼心の支えになっている。
記憶のかなたになる前に――もっと聞きたい、知りたい
祖母は認知症を患い、乳がんで亡くなった。祖父は老衰だった。思春期の頃はもう離れて暮らしていたので、亡くなってから連絡をもらい、葬儀に駆けつけた。幼いころ、あんなにお世話をしてもらったのに、小学校高学年になる頃には部活動も忙しく、数年に1度のお正月に会うくらいで、遠い存在になっていた。
今はもう、母も亡くなってしまって、父に話を聞いたり写真を見たりして記憶をたどっていくことしかできない。でも、写真からわかる私は、いつも安心していた。私をよく知る祖父母がそばにいてくれて。この歳になるまで気付けなかったことが残念だけど、もっと話を聞いておけばよかった。母がどんな環境でどう育ったか、私が赤ちゃんの頃はどうだったか。
私の父は私が小さなころ、転勤族だったから、大阪府豊中市で弟を出産し、私は名古屋市の祖父母宅へ預けられ、さらに幼稚園に入る頃には千葉県市川市に引っ越しした。それで疎遠にもなった。でも、話をもっと聞いておくことはできる。核家族化が進み、同居じゃない世代が増える中で、それでも今ほどLINEやZoomもない時代。今なら離れていても、もっと話を聞きやすいかもしれない。一緒に住んでいなくても。心の距離を感じていたい。それができる時代に、今、私たちはいると思う。
12月17日(土)、ドキュメンタリー映画『うまれる』を見て、家族について語る会をやります。家族について、話そう。知ろう。聞いてみよう。