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ことばは、重いのか、軽いのか


ことばは、強くてまっすぐ。

私は、ことばについて考えるのが好き。

なんでことばが好きかというと

思ってることを「伝える」「表現する」ためにたぶん1番近い手段で、

書くにしろ、話すにしろ、

その一言一言すべてに、伝え手がその言葉の後ろに持っている考えや、思いがのっていると思うから。

逆に言えば、

伝え手は、(特に消して書き直したりできる書き言葉なんかは)、
自分の言葉に、自分の考えや思いを意識的に組み込んであげることができて、
相手に「こう伝わって欲しい」という気持ちを、言葉を選ぶことで、割とコントロールすることもできる。

もちろん、言葉も相手にはちがうニュアンスで伝わったり、もはや伝わらなかったりすることもあるけれど、
言葉は重いものだとばかり、思っていた。

でも、
言葉よりも、「どう伝わってほしい」っていうものを伝え手がコントロールすることが難しいと思ったのが、

映像や、身体芸術だ。

私はパートタイムでメディアの映像関係のお仕事をしている。
ある日、もとは記事を書く記者だった方が映像の部署に異動してきた。

同じようにニュースを扱っていても、
書くことと、映像を撮ることはなにが違うのか
と聞いたことがあった。

「例えば、青色の物体があって、それをオーディエンスに伝えるとき。
言葉だったら『淡い青色です。』と書いてしまえば伝わるものを、
映像だったら、相手にとってそれが『淡い青色』に見えるように、
被写体を映さなければいけない。それはとっても難しいの。」

と、その方が言った。

確かに。
考えたこともなかったけれど、映像は、
「どう伝わってほしい」という気持ちを、
相手にお任せしなければいけない。

でもメディアである以上、正しく伝わらなければいけないから、
言葉で「これは青色です」と答えは言えないけれど、
絶対に青色に見えるように伝えなければいけない。


もう一つ。
先月、国際芸術舞台交流に携わる仕事をした。
各国からコンテポラリーダンスのダンサーたちが集まって
ダンス公演をしていた。

その中で、ひとりのインドのダンサーが、
『言語と身体』の関係性について自分が思うことを
英語で話している音声そのものを、
BGMにして踊っていた。

観客には日本人もいたので、
会場には、そのBGMの翻訳字幕が流れていた。

なんとなく、思ってしまった。

答えをそう簡単には、知りたくない。
もし目の前に上演されているのが、その身体表現だけなら、
それを観ている観客によって、
その身体の動きの意味を、いかようにも解釈することができる。

でも、言葉があるおかげで、というかもはや、あるせいで、
動きの後ろにある、踊り手の概念が、
その身体の動きが何を意図している動きなのか、
答えを言われてしまっている気がした。

英語のBGMだから耳からも言葉が入ってくるし
字幕があるから、目からも言葉が入ってくる。

本来なら、芸術であるから、
正しいことをそのまま伝える必要のあるメディアとはまた違って、
理解や解釈も、見ている人に委ねることができるはず。

それなのに、言葉があったために、
「この動きはこういうことを表現しています。」と
説明されてしまったというか、
なんだか答えを先に言われてしまった気分になったのだ。

言葉があるせいで、
なんだかその表現が、解釈の余地のない、
奥行きのないものに勝手に思えてしまった。


言葉は、一つ一つ、伝え手の意図があるから、
発された言葉には、相手の考えを、伝え手の思うように
運んで行くこともできる。
いい方にも悪い方にも動く力のある、重みのあるものだと思う。

でも、
言葉は、一つ一つ、伝え手の意図があるからこそ、
目の前にあるものが「それ」だと、
ある意味簡単に決めつけてしまう、
軽く答えを言ってしまう、相手に想像力を与えないこともある。

言葉は、重いのか、軽いのか。


と、考える外出自粛の土曜日。

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