その人の背景
今回はnoteを始めた原点でもある魔法の靴について。
左足に装具というのをつけて生活をしている。
なじみがない方にわかりやすく伝えるとするなら、骨折をした時にギブスをするけれど、私のように治すことができない人の為にサポーターのような役割としてつけるものが装具です。
装う道具と書いて装具。悪くはないな。
それを作る専門の義肢装具士という方がいて、お仕事をされてる会社が義肢製作所というところです。
装具をつけてる人は、私の周りには誰もいないので、話したこともないし、話せる人もいないのだけれど、私が大人になり関わってくれた5名の装具士の方を通して思ったことを書いてみたいと思います。
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医療用具でもある装具は医療費で作るので、1年半置きにしか作れないという決まりがある。
日常で装具が欠かせなくなったのが社会人になる前だから、自分で申請し、希望する製作所にお願いして作ってもらっている。
私が住む県には、この製作所の数が少なく、2,3名の小規模で経営している会社がほとんどだ。
独身時代、私は隣県の熊本市まで作りに行ったことがある。
姉が地元の大学を卒業し、医学の道に進むと言い出し、熊本の大学に通っていたので、そこで知り合ったリハビリ医に私のことを相談し、紹介してくれたのだ。
大学を入り直してまで医学の道に進んだのは、不自由である私をみてのことだったらしい。
姉は大学生の時によく旅に出かけていた。帰路についた時、当時入院していたわたしの見舞いに来て、どうして私は自由に動けるのに、妹は車イスに乗っているんだろうと思ったのがきっかけだったと、昨年色々なことで苦しんでいる私に手紙を書いて教えてくれた。
しかし、長いこと一緒に住んでいたのに、遅くはないか。そんな遠回りしなくても、もっと早く気づけただろうに。
そして、姉は大学を入り直している以上、親に負担をかけられないと、間借りという形で住んでいた。
今もそのシステムがあるのか分からないけれど、歴史のある大学の周辺は、一軒家の一部屋を学生に貸す間借りといのが一般的だったらしい。
その方が家賃も安いので。
ただその当時、医学生で間借りなんてしてるのは姉くらいだったらしく、ほとんどが医者の娘、息子だったのでマンションに住んでいる人が多いと言っていた。
わたしの家は決して裕福ではなく、両親は共働きで、母はパートだけれど休日も仕事の職種だったから、休日に一緒に出掛けた記憶はほとんどない。
そんな中で、姉は私にないハングリー精神という、たくましさを持ち、奨学金を借りて、家庭教師やバイトを掛け持ち、金銭面で負担をかけないように6年という長い月日を過ごしていた。
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仕事で有給休暇をとり、肩身の狭い思いをしてまで、装具を作りに県外に行っていた。
一度出来上がった装具を、毎日寝る時以外はつけるので、自分に合う最適なものにする為に最善を尽くしたいという気持ちがある。
まずは足型をとり、仮合わせをして、仕上げてから受け渡しになるので、最低3回は行かないといけなかった。
その度に高速バスに乗って。仕事帰りに夜行バスで行ったこともあった。
結果としては、装具の出来上がりが素晴らしく、技術のちがいを目の当たりしてしまうことになった。
装具でこんなに違うのかということをある意味知ってしまったのだ。
人口が多いと、その分診る患者数も多いから、医師や装具士の方は私の症例も慣れているらしく、最低回数の3回で仕上げてくれた。
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そもそも県外に行ってまで作った理由があり、熊本に行く前は地元でも唯一規模が大きな製作所で作ってもらっていたのだ。
当時、わたしが20代半ばで、担当の方が40代後半だったと思う。
その会社の営業所が実家の近くにあり、仕事帰りに通っていた。
仮合わせに行くのだけれど、何回行ってもうまく歩けず、毎回「難しいな~」と言われ、話好きな、感じの良い方ではあったけれど、1時間くらい雑談をして帰るだけの日が10回くらい続いた。
市役所に申請しているし、作ってくれる人をこちらは選べない。
その時のわたしは、出来上がるのを辛抱強く待つしかなかった。
そんな中、姉に電話をして、その話をしてみた。
「なかなか装具ができなくて、挙句の果てに、足を切って義足にするなら簡単に作れるんですけどね、とか言われたんだけど」
「なんだそれ、しかも時間がかかりすぎじゃない!??他のところに変えるべきだと思うけど。」
やはりそうか。その時、やっと気づけた。
作ってもらう以上、心理的にはその人を信じて待つしかなかった。
それでもね。10回は多いよね。やっぱり。
その後、理由をつけて、市役所に申請を取りやめてもらうことにした。
そういう経緯があるからこそ、熊本で作られた装具は感動以上のものがあった。
その装具をつけて、どこまでも、どこまでも歩いていくことができた。
会社で、1年に一度取れる連続休暇というのがあり、国内外、遠いところではヨーロッパまで旅をすることができた。
歩くことが全く苦痛ではない。自分の足代わりの装具をつけて。
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結婚した当初までは、旅行も兼ねて熊本に作りに行き、修理は郵送でやりとりをしてお願いしていたけれど、子どもができると身軽に行けなくなった。
熊本の担当の方も不憫に思ったのか、「以前こちらで働いていた人が社長としてやっている製作所を知ってるから、今後のサポートはそちらにお願いしましょうか」と、私の地元の会社に聞いてみると言ってくれた。
しかしそこは、その前に通い続けた、お断りした会社だった。
当時のことも、その人のことも言い出せずにいた。
年月も経っているし、同じ人が担当するかはわからないし、県外へ行くのも難しかったのでお願いすることにした。
そして不安がありながら、予約の電話をしてその製作所に向かった。
まずは、担当は以前の方ではなかったので安心し、しかし私よりも若い感じの方だったので、内心「まだ若い経験の浅い装具士の人に、わたしの装具なんて作れるはずないと思うけど。あのベテラン風なおじさんだって何十回かかっても作れなかったし」と、上から目線で、期待もせず、新しく型とりをして帰った。
しかし、その後の仮合わせで歩いてみたら、ちゃんと歩けた。
え?1回目でこれ!??この若さで???
とても歩きやすかった。明らかに私の足になじんでいた。
熊本で作ってもらった装具と同じように。
若いから技術がないと決めつけたことをとても反省し、
「ベテランな方でさえ、難しい、難しいと言われてなかなか出来上がらないことがあったのに、1回目ですごいですね!!」と伝えた。
わたしにとって装具は、幼少期に整形外科での手術後に矯正目的で治療用として作っていた時もあるので、当たり前のものだけど、この人はどこでこの仕事を知ったんだろう?
わたしは、すぐその人の背景を知りたがる。
そして聞いてみた。
「どうして、この仕事をしてるんですか?」
「ぼく、高校で野球しかやってこなかったんです。他にできることが何もなくて。うちの社長、僕の伯父なんですけど、やってみないかって誘われて」
そうなんだ。親戚が身近でやっていたから、この仕事は知っていたんだ。
その方に、2、3回作ってもらい、その間に何度か雑談する中で、
「こんな若い方が活躍されていて、ずっとこれからも作ってもらいたいので、やめないでくださいね!」と伝えると、
「よく病院でもおばちゃんたちに言われます。ほかに取り得も、できることもないんで。」と笑って答えていた。
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ある日、製作所から電話があり、その声はいつもの担当の男性ではなく、女性の方だった。
「実は、〇〇が休んでいるので代わりに私が担当になりました」ということだった。
つくり替えの時期だったので、しばらくしてその方に会うことになった。
担当の男性よりも更に若い方で、バッチリ化粧をして、見た目も今どきの子という感じだった。
「〇〇さん、どうされたんですか?」電話では込み入ったことは聞けないので改めて、休んでいると言っていた担当の方のことを聞いてみた。
「やめたんですよね…」
やめた???
やめるって、よほどのことがあったんだ、きっと。。
深く聞いてはいけない気がして、聞いても個人的な事情だろうから、話せないだろうし、それ以上は聞けなかった。
その女性の方は装具士としての経験も浅いのに、靴が入りやすくしてほしいという私の要望もすぐ理解してくれて、同じ女性という視点から、これまでと違いスリムな装具を作り上げてくれた。
どうして装具士になったんですか?と聞くと、
「高校で物づくりを専門にしていて。その時に、先生にこの仕事のことを教えてもらい知ったんです」
そうなんだ。なるほど、そういうめぐりあわせもあるんだね。
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それからしばらくして、その女性は結婚で福岡に行く為、退職することになった。
それを聞いて、「福岡はたくさん会社もあるし、すぐ新しいところみつかるでしょうね」と言うと、
「この仕事、まだ男性社会なので女性の装具士というのは結婚出産でやめるから、需要がないんです。だから新規採用してるところもなくて。就職先がないから、しばらくは働けないんです。やめたくないんですけど…とりあえずは退職までに終わらせないといけないことがたくさんあるので、がんばります。」と話してくれた。
新しい装具の調整の為、最後に会ったときに彼女は、
「今、私この仕事を始めて、一番楽しいんです。この仕事が自分に本当に合ってるなって思うんです」と、キラキラした目で、とても清々しい表情で話してくれた。
なんだかとても心が温かくなり、作ってもらい、助けられてばかりだと思っていたけれど、楽しいと言ってくれるなんて。
装具を必要とする自分のことが、ほんの少し誇らしかった。
装具を作ってもらうことで、彼女が自分自身に自信をもち、楽しく仕事としているのなら、これ以上の喜びはなかった。
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そして現在、彼女の後を引き継いでくれたFさん。彼女の後輩でもあり、やはり世代としては30代前後の方。
装具士になった理由を聞くと、
「ぼく、大学で工学部に行ってたんです。ものづくりがしたくて。でもそのときに、この装具を知る機会があり、自分のやりたいのはこれだと思って、本当はすぐに大学もやめたかったんですけど、親に卒業だけはしろって言われて。もう気持ちは固まってたけど、とりあえず卒業して、装具の専門学校に入り直して国家試験を受けたんです」と話してくれた。
大学を出てまで。姉と同じような志をもち学び直す人がここにもいたのか。
そこまでして、この仕事に携わってくれる人がいるなんて、嬉しさというか、わたしとしては感謝でしかなかった。
わたしは、生活の質に直結する足代わりの装具があってこそ、歩けるのだ。
それを作ってくれる方に助けられているし、支えられているのだ。
私自身、誰かのおかげで助けられていることを、足の不自由さを通して直接こうして味わうことができているのだと思う。
とてもわかりやすいから。
けれど、世の中のすべては、これに通じていると思う。
どんな仕事もそこに行きつくまでに、その人の、それぞれの背景がある。
そして、当然どんな仕事も必要で、職種で優劣なんかなく、たくさんの方に支えられて、助けられて誰もが生活できている。
私のように提供されることで、仕事をする相手に最大限感謝して伝えることもできる。それもある意味恩返しだ。
直接伝えられなくても、どんなことにも日々、感謝する気持ちだけは忘れずにいたいと思う。
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