人が作った ものさし で人を測ること
まえおき
先にお断りを入れますと,私は決して知能検査を批判したい訳ではありません。知能検査を正しく理解いただき,正しく使っていただきたいと思っております。
知能検査の開発に関わってきたからこそ,その知能検査がきっかけで誰か傷つく人がいる状態が辛く,少しでもそのような使われ方が減り,本来の目的のように,検査が少しでも多くの人の助けとなることを,切に願っております。
さて,今回は,「ものさし」のお話です。物差しです。定規です。“基準”とか,“尺度”ともいいます。
ものさしがあるから判断できる
何かを測るときには,基準が必要です。
たとえば,「この距離の長さが“1cm”」といったものや,名前のとおり病気の「診断基準」や,「建築基準」「評価基準」なども基準です。基準が存在しないと,その距離がどういうものか,その症状がどういうものかという,判断や比較が非常に困難になります。
基準があって初めて,異なるものを比較するときの根拠になります。
この基準を形にしたものが,ものさしです。
ものさしとは「ものをさす」もので,これは「ものを当てる」という意味です。ものさしにものを当てて,基準と比べます。
ものさしとしての知能検査
知能検査にも,基準があります。むしろ,知能検査そのものが,知能を測るための「ものさし」です。
この知能検査というものさしに,誰かの知的能力(能力結果)を当てることで,「この人の知能は115だ。115というのは平均の100より標準偏差1個分高い値だ」のように,数値での判断や比較が可能になります。
検査を作る際は,適切な問題を作成することに加えて,正確な基準を作ること,つまり正確なものさしであることも,非常に重要です。
知能検査は,「実態のない構成概念」である知能を測るためのものさしであり,なるべく正確なものさしとなることを目指して,さまざまな限界のもとで,特定のだれかが作成しているものです。
特定の言語や文化の中でのものさし
日本版の知能検査は,日本用の基準でできています。
日本語を母語として日本に住み暮らしている研究者たちが,これなら知的能力を測れると判断した問題を,設定します。そしてその問題を,日本語を母語として日本に住み暮らしているたくさんの人に,回答してもらいます。
そうして集めたたくさんの「日本の問題の日本の回答データ」から,日本の基準を作ります。これが,日本版の知能検査です。
この日本版の検査では,例えば,アフリカのマサイ族の知能を測るようなことはできません。
もちろん言語の問題もあります。それでも,仮に言語を完璧に翻訳できたとしても,日本のものさしにマサイの人たちを当てはめたところで,何も意味がないように思います。文化や生活スタイルが大きく異なるように,知能観も,日本とマサイでは大きく異なっている可能性があるからです。
日本の知能検査は,あくまでも日本用のものさしです。
特定の学者たちの,その当時の知能観によるものさし
日本の知能検査は日本用のものさしと言いましたが,このものさしは,日本であれば誰にとっても平等に当てはめられる基準なのかというと,絶対そうだとは言い切れないのではないでしょうか。
日本の知能検査の基準は,日本中のたくさんの人(例えば,北は北海道から南は沖縄まで,さまざまな学歴の,1000人以上の人)の回答から作られています。この観点からは,日本を代表したサンプルによる日本の基準と言えるかもしれません。
しかし一方で,検査問題は,特定の学者間で作られています。特定と言うと語弊があるかもしれません。実際は,世界中の研究者たちの知能研究に基づいていますし,国境を越えたオブザーバーなどたくさんの関係者を含んだチームで作成しています。
それでも,例えば,そこに女性はどれほど入っているでしょうか。女性とも男性ともいえない人もどれほど入っているでしょうか。検査の知能観が,男性性固有の目線に偏っていることはないでしょうか。
あるいは,例えば,現代は素早い計算速度よりも,状況に応じて自分の周りの人やモノを組み合わせる力や,チャンスを嗅ぎ分ける力などを知的能力とみなす人もいるかもしれませんし,さらに今,新型ウイルスが世界中を脅かしており,今となっては衛生に関する適切な知識や行動も生死を分ける重要なものになっていますが,さて,それらを今の知能検査で測ることができているでしょうか。
知能検査で測ろうとしている知能は,特定の学者たちの,その作成当時の知能観に基づいたものです。知能検査というものさしで測っているものは,必ずしも普遍的とは限らない知能です。
人が人を測るということ
日本版の知能検査は,日本の知能を代表するように精一杯考えられ,一つひとつ丁寧に,苦労を重ねて作られたものであることは,強調させてください。しかし,所詮は,どうしても,他人が作ったものさしです。
もちろんこれは知能検査に限った話ではありません。人が人を測るということに,必ず付随する問題です。
30年ほど前までは,日本では知能検査は厳しい批判にさらされてきました。当時は,人が人を測ることを嫌悪する人が多数であったと聞いています。それが,各方面のご尽力によって少しずつ,知能検査の科学性と有益性が認められ,そして,今の流行に至っております。
しかし,以前批判されていた点が,現代の知能検査で必ずしも克服できている訳ではありません。人が人を測ることの限界が過小評価され,忘れられているだけに思えます。
前回の「知能検査の人気を受けて,知能とは何か,知能検査は何を測っているのかを語ってみる」の記事では,実態のない知能を測ることの限界と,知能を測ることが結果に結びつかないケースがあることをお伝えしました。
そして今回は,人が人を測ることの限界について述べました。知能検査にはこのような限界があることを踏まえて,検査結果を冷静に受け止めていただきたいと思っております。
さて,今回の“人が人を測る”ことの話は,「ものさしを作った人が」人を測っていることについてでしたが,次は,「検査を実施する人が」人を測っていることについても,話してみたいと考えています。