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ウォレス・スティーヴンズ『The Man With The Blue Guitar』(1937年)の訳

青いギターを抱いた男

1.
男がギターに被さっていた。
羊の毛を刈るのに似ている。日は朝まだき。 

皆が言う、「青いギターを持っているんだね、 
君は、でも、メロディーをちゃんと弾かない。」 

男が答える、「メロディーはそのまま、 でも、
この青いギターにかかると変わるんだ。」 

それで、皆が言う、「でも、メロディーは 
僕らが生まれる前からあって、僕らが死んだ後もあるんだ、」 

「だから、青いギターで奏でても、 
メロディーはちゃんと弾かないといけない。」  


2.
僕は、世界をすっかり網羅することは無理、 
でも、やれるだけは、当てるんだ。 

僕は英雄の頭に歌い掛ける、大きな片目、それに黄がかった 
茶色の髭が生えた頭、でも、ブロンズで人ではない、 

でも、やれるだけは、当てるんだ、 
そうしたら、ブロンズの英雄を通って、どうにか人に歌が届く。 

もし、そうやって、どうにか人に歌いかけたセレナードが 
ちゃんとしたメロディーから外れているならば、 

それが、青いギターを弾く男の  
セレナードと言うことだ。   


3.
ああ、けれど、男が自分に弾く時は違う、 
それは、自分の心臓に短剣を打ち込むことであり、 

脳を台の上に置き、 
きつい色をつまみ出すことであり、 

自分の思想をドアに斜に釘付けることであり、 
すると、その思想の羽はグンと広がって、雨になり雪になるのだけれど、 

自分の脈命を打つことであり、ハイホーと、
ピクッと動かし、ドクッと動かし、本物にすることであり、 

金属の弦をジャンジャン掻いて、
青いギターから残酷な青を喧しく鳴らすことであり…


4.
それでは、そのままのメロディーは生きていると言うことなのか? 
メロディーは、青いギターの上に進む道を採っている。 

一本の弦の上に百万の人がいて、 
このメロディーに、その百万の人の様式がすべてあると、言うのか? 

正しい様式も、間違った様式も、すべてが、 
弱い様式も、強い様式も、すべてがあると? 

感受性が、猛った様に、巧妙に細工された様に、 
秋の風に乗る蝿の様に、鳴く。 

だからやはり、そのままのメロディーは生きているんだ、 
この青いギターから出るブンブン鳴る音は生きているんだ。   

5.
詩の重要性、 
地面の下で結束していく松明、

点光源の上の天空、のことを話すな。 
点光源、私たちの太陽には影がない、 

昼がしゃしゃり出て、夜は引っ込んでいる。 
影はどこにもない。 

大地、私たちが見る大地は、平たくて剥き出しだ。 
影はない。詩 

は、音楽を超えて、きっと、空っぽの天国 
それに天国を称える讃歌に取って代わる、 

君がギターを鳴らしている最中でも、 
詩に関わる私たち自身が、きっと、天国と讃歌に取って代わるんだ。 

6.
一節のメロディーが向こう側に、私たちはここにいるままなのに、 
それでも、そのメロディーは青いギターで変えられることがない。 

君が、青いギターでそのメロディーを弾くとき、 
そのメロディーは変わらない、ただ、 

メロディーのある場所が変わっている、そして、 
私たちは、ある空間にでもいるかの様に、メロディーの中にいることになる。 

そう、音域を変えられて、向こう側に置かれる、 
大気の究竟の中で聴き取られる。 

最期の時、その前に、 
神について考えることが、雫の様に固まった煙になってしまったら、 

芸について考えることが最終のことの様に思える。 
メロディーは空間だ。青いギターは、 

メロディーがそのままである場所になる、 
ギターとは何なのかと分からせる構造物になるのだ。 

7.
私たちの作品を他の誰かに知らせてしまうのは、太陽。 
月は何も漏らなさい。沈黙の海の様だ。  

太陽がもう私たちの作品を知らせなくなり、 
大地が這いずる人間でいっぱいになり、 

機械の甲虫組がまるで熱くなることがない、 
それで、まるで沈黙の海の様だ、何も漏らさない、 

と、太陽のことを言う様になるのは何時だろう? 
そうしたら、私は、太陽に立っているだろう、今、 

月に立っているのと同じ様に、そうしたら、 
そこは、そのままのメロディー、つまり、私たちとは切り離されていて、 

塵一つなく美しい、神からの賜り物の様に素晴らしい、と言うだろうか? 
太陽の一部ではないのか? 遠く離れて、 

立つことが、神からの賜り物だと言うのか? 
青いギターの弦は、冷たい。 

8.
閃き行き交う稲妻で満ち満ちて、
ドクンドクンと、無数の突起が内側から膨れ上がり、複雑怪奇に絡まる空、 

興奮した様に光る、 
それに、熱烈なコーラス部へ向けて 

行き惑い、ハッとさせられる和声にひどく感じ入っている雲の下の  
その朝は、まだ、夜に押し切られている様だ、 

空は、その雲の間で叫んでいる、 
空を飛んで行く金色の敵対者に怒って、 

私には分かっている、私が爪弾く鈍く間延びした  
弦の音は、嵐の中の理性に似ているのだと。 

それでも、私の弦の音は、嵐にこの音を運んで行こうという気にさせる。 
私は爪弾く、ただ、そこに音を放り出すだけだ。    

9.
そう、その色、 
青いギターを作っている、そのどんよりとした空の 

色は、けれども、言い表し難い、 
私はと言えば、弦の上に屈み込んだ、 

影に過ぎないのだ、私ではなく弦なのだ、 
他に成り様のないメロディーを作るのは、弦なのだ。 

その色が思わせるのは、一つの感情から 
生じた一つの考え、ちょうど悲劇俳優の長衣の色、 

半分は彼の身振り、半分は彼の語りで 
出来た長衣、彼の意図でなった衣装、 

メランコリックな台詞と舞台の雰囲気で、 
濡れそぼった絹の長衣の色、その色は彼自身なのだ。   

10.
真っ赤になった円柱がけたたましく鳴る。ベルが 
ゆっくり鳴る、中は空っぽのブリキが音を立てる。 

通りに投げ入れられる新聞、その紋章には 
厳かに、死者の意向が印されている。 

そして、美しいトロンボーン隊がいる。彼らは注視している、 
彼らの誰も信じていない彼の演奏法を、 

誰もが信じていると、皆が信じている彼の、 
念入りにワニスを塗られた異教徒の演奏を。 

ギターに被せて、ドラムのロールが鳴る。 
ドラムは尖塔から身を乗り出している。トロンボーン隊の一人が大声で言い放つ。 

「ここにいる、私と競う人よ、私は、 
君に面と向かっているぞ、ツルツルのトロンボーンを鳴らしているぞ、 

これっぽちの惨めさもない、 
心中には、惨めさの微塵もない。 

さあ、君の最期へのプレリュードだ、 
ほんの一節で、人も岩も倒れてしまうぞ。」   

11.
相当の時間を掛けて、種から生えた蔦 
は種になる。同様に、  

女たちは都市になり、子供たちは野原になる、 
断続して波状に押し寄せる男たちは海になる。 

間違いを直すのが和音。 
海は男たちに戻る、  

子供たちを陥れる穴となった野原は、怯えて 
ただの弱虫の様だ、それで、蝶も全部捕まえられる、 

飛ぶものもなく、枯れてしまった野原は、それでも力強く生きている。 
不協和音だけが音を大きくしていった。 

腑の奥深くにいる真っ暗な 
間、時間は岩から注目を受けている。    

12.
トムトム、セモア[ 朕ハとむとむ成リ ]。同様に、青いギターとは 
私だ、同じ物なのだ。オーケストラは、 

落ち着きなくもぞもぞする人たちでホールをその高さいっぱいに 
満たす。大勢の聴衆が、 

言いたいことを言い終えて、さんざめきが次第に小さく 
なっていき、彼の息だけになる、夜の間目覚めたままの彼の息だ。 

彼は言う、このギターは内気な生き物だ、私は、 
分かっているのだろうか? メロディーを弾くのに 

どこで初めてどこで終えるのかを、けれども、私は 
ギターを取り上げる、それも、もう、重要な表明なのだけれど、 

けれども、まだ、ギターは私ではない、 
そうなる筈のものだけれど、まだ、何者でもないのだ。 

13   
青の中へ割り込んで来る褪せが  
今しているのは、蒼白さを、あ、減、じ、、、 まだ芽の青を  

花を包む膠を不味くしていると言うこと。  
伸び拡がる筈の芽、散り広がる筈の花は、  

滲のないお頭の弱い夢想であることに、 
青の世界を報じる新聞の頭紋章であること   

に事足りている。百人の恋愛小説家の顎でテカテカに  
光沢を出された青という形容詞であることに自足している。   


14
最初に一筋の光線、それからもう一筋、それから 
一千の光線の放射が空に起こる。 

そのどれもが星であり天体である、だから、昼と言うのは 
その天体の表面から来た光線が豊富にあると言うことなのだ。 

海がその光線の端にちりぢりになった色を加えている。 
光線が届く際では、音を消す霧が層になって並んだ支柱の様だ。 

誰かが言う、これでは、凝り過ぎたドイツのシャンデリアだ ーー 
世界を照らすには、一本の蝋燭で足りると言うのに。 

そう言われればはっきりする。真昼であっても、一本の蝋燭は暗闇の 
中で輝いている。何かに遮られて生じたのではない、自らが原因でそう 
                   なっている暗闇で。  

夜には、一本の蝋燭は、果物とワインを、 
本とパンを照らして見せる、それらがそれである様に見せる。 

単彩の明暗だけの中に、 
その人は座って、青いギターを弾く。 

15  
このピカソの絵、背後にいくつもの破壊を 
秘蔵している「図像」、これは私たちの肖像?  

つまり、私たちの社会の印象なのだろうか? 
私はモデルをするのか? 形を崩しながら夏至の満月へ 

手を伸ばす剥き出しの卵のモデルに? 
夏至の後の実りも、満月も見ないのに? 

いくつもの破壊を経て、存在はあるのだ。 
私もなのか? 私は、冷めた食事の載る 

テーブルで死んでいる男なのか? 
そう思うことはもう追悼なのだろうか? 私は生きていない?  

そこにある床の染み、ワインかもしれないし血かもしれない、 
たぶん、両方なのだろう、でも、それは私のものなのか? 


16 
この世は空からへこんだ穴の様でなくて、何か固まった、 
でも、落ちる人を抱き留める程広くはなく、 

何か核の様な、でも、一個の種とは似てない、違う。産み 
出すことはないのだから、圧政者に似ている、 

圧政者。人々に死を出し惜しんで、なのに、 
人々が生きる活力を出し惜しんで、人々を憂鬱にさせる、 

させ様としない、戦場で生きることを、戦時下で生きることを、 
させ様としない、鈍重なプサルタリーの弦を切ることを、 

させ様としない、イェルサレムの下水管を改良させることを、 
させ様としない、雨雲に帯電させることを、--- 

聖体拝領台に蜜を供えて、死ぬのがいい、 
本当に辛く思っている恋人たち。   

17 
「すがた」には「かたち」がある、でも、生まれて死ぬ 
様な生き物の「かたち」を言っていない。魂とか、 

心とか、精霊を思わせるものを言っている。これは、 
生き物の様なのだ。青いギターは、 

そのかぎ爪が弾き出した「聴き手のない日々」 
をその歯牙がはっきりと音にするのだから。 

青いギターは「かたち」なのだろうか? 「かたわく」なのだろうか? 
さて、兎も角、北風が金管を 

吹く、つまり、一本の細い管の中で作曲をする 
一匹のいも虫が、勝利したと言うことなのだ。   


18 
‘もの’の表面に夢が宿る、 
私はその夢を信じてしまい勝ちだ、(それを夢と呼ぶのだから) 

しかい、幾晩も長々と掻き鳴らされてしまった 
青いギターがあの触感、手ではなく、 

風の閃きの触感を齎らした以上、 
もはや夢ではない、そのままのメロディーで出来た 

ある‘かたち’なのだ。言い方を換えれば、 
陽光が差して来る時の、あの 

元そこにあった筈の海から上がって来る 
崖に映える’光’の様なある‘かたち’なのだ。   


19 
その’光’の様なある’かたち’は、あの’宏大’なものを私が 
私自身の大きさまでに縮めたものなのだ、たぶん、’宏大’なものの 

表面に居る私自身なのだ。もはや、’宏大’なものから 
浮き出しているのだ、無限のリュート群が一体となった 

’宏大’な中の無数の奏者から、もはや、一歩はみ出して 
いるのだ、けれど、孤絶しているものではない、’宏大’なものを縮めた 

時、そこには、縮めるものと縮めまれるものがあって、それが一つ 
になっているからだ。’宏大’なものの動きと私の動きが一つになっている。 

けれども、’宏大’なものの知性としての私自身ならば、 
そんなものは、まったく無い方がいい、 

石に封じ込められたライオンを前にした、 
リュートの中のライオンである様な知性なんて。   


20 
「人生に於いて良いささえ、それは空気」と言うのが 
あの人の考えだ、けれど、人生には他に何かないのだろうか? 

「良い空気、それが私の唯一のささえ」と言う考え、 
私はそれを信じているのだろうか? 信じているのは 

信じているのは、「私」の唯一のささえ、良い空気よりも 
もっと肌に沿う様に思えるもの、ささえにきっとなって 

いただろうと思えるもの、愛に満ちた私と相似 
のものがあった筈と言うこと。それはぼんやりと青いギター、…    


21   
それはすべての神々のたった一つの代用者なのだ。それは神々の 
本質の代用なのだ、高い空の金に輝く神々そのものではなく、 

ただ一つ、地球を見下ろし、 
君臨する、今や至高のと呼ばれる 

どこまでも広がっていく、ただ一つの影なのだ、 
それは、更に広大な天空の中、その高いところで 

たった一つある、チョコルナ山の影なのだ。 
それは、この土地の君主であり、 

この土地に住む人間たちの君主、天空の君主なのだ。 
チョコルナ山そのものと、続く山々そのものには、 

肉、骨、塵、石と言った 
意味深長なものも、影もないのだ。   


22 
詩が写そうとしているのは、詩情なのだ、 
詩は詩情から発出して、詩情へ 

回帰する。二つのことの間、 
発出と回帰の間には、実際、 

詩情がない状態がある、その時に、 
そのままのメロディーがある。あるいは、私たちが言ったままの言葉。 

けれど、詩と詩情は別のものなのだろうか? 
「太陽の緑」「雲の赤」 

「感じている大地」「考える空」と言う 
現実の現象に迫った詩には、詩情はないのだろうか? 

そこから詩は得ている。たぶん、 
すべてのものが行き交う中で、詩は詩情を与えているのだ。   


23 
終わりの二小節で和声の解決、それは 
雲の中の声と大地の声の二重唱、 

天空の声と酒の匂いのする声、 
どこまでも行き渡る声と、雪の中 

花輪に急に思いが込み上げて 
太くなる葬送の歌の声、 

和声の解決、それは葬儀屋との二重唱、 
雲の中の声は澄み渡って主音になっている、 

地上のくぐもる声も平らに主音になっている、 
想像されたものと実際にあるもの、 

思考と真実、ゲーテの『詩と真実』、 
くる年もくる年も、そのままのメロディーを 

そのままである様に集中して、繰り返し演奏していると、 
混乱していたものがすべて、収まっていく。 

24 
私が思っているのは一つの詩なのだけれど、その 
詩が似ているのは、あの沼地で見つけられた祈祷書、 

あの若い人が求めている祈祷書、 
あの学者が血眼に求めているあの本、 

あの本そのもの、そこまででなくても、 
せめてその一頁、いや、せめてその中の一句の様な詩なのだ、 

「生命を孕んだ一羽の鷹」と言う句がそれだ、それは 
「知る」を学術用語にしたもの、思索的に見ると言うことだ。 

鷹の目に目を合わし、怯えることなく、でも、思索を喜んでいることには怯んでしまう。 
私は弾いている。こんなことを考えながらだ。    


25 
彼は鼻に世界を載せていて 
そうして「このやり方」で、放擲を一回与えた。 

彼の礼服には彼を示す文字、哀・吚・吚 ––– 
そうして「あのやり方」で、メロディーをくるくる回した。 

樅の樹の昏がりで、水性猫たちが 
音も立てずに、草叢に潜り込んだ。 

猫たちは、草がどんどん広がっていくのを知らなかった。 
猫たちは猫たちを生み、草叢は鬱蒼としていった。 

そうして、草が青々となり鬱蒼となっていく「このやり方」で 
一つの世界はいくつもの世界を生んだ。 

そうして、鼻の「あのやり方」は何も変わらない。 
そうだったメロディーそのまま、そうであるメロディーそのまま、 

すぐにそうなるだろうメロディーそのまま、…   
太い指が調子を取る、哀・吚・吚。   


26 
彼の想像力の中で浸食された世界、 
世界は、前は、海辺だった、音だろうが、 

形だろうが、光だろうが、形見だろうが、 
告別のどこまでも続く反響だろうが、それらが揺れていた 

ところ、そこに彼の想像力は帰っていたものだし、 
そこから飛び出していたものだった、それは空に引かれた一本の線状、 

雲に積み上げられた砂、あるいは一人の巨人だ、 
巨人は残忍な字母と戦っていた、 

辿り着けることは出来ないユートピアについての 
思想の群れ、夢の群れを表す字母と戦っていた。 

山々に由来する音楽は、いつも、 
降下して来て、そのまま過ぎ去って行く様に思えた。   


27 
屋根を白くしてるのはうねりだ。 
うねりは冬の大気の中を打ち寄せてくる。 

北風が作っているのがうねりだ。 
うねりは降り続く雪の中にある。 

今の暗がりは、うねりの所為の暗さだ。 
地理学者たちと哲学者たちは 

そう考えている。けれど、潮の香のカップ以外は、 
軒の氷柱以外は、 

うねりは冷やかしの一形式だ。 
作中に氷山を設定するのは、 

急な場面転換を売り物にして、 
自分自身になれないデーモンを皮肉っているのだ。 


28  
私はこの世界に生まれついた者だ、 
それだから、ひとりのここに生まれついた者と同じに、この世界で考える、 

ジェズ[ イエス ]よ、精神に生まれついたのではないのだ、 
私は、私が自分の思いだと言うものをずっと考えている、 

生まれついた者よ、ひとりのこの世界に生まれついた者、 
ひとりの生まれついた者として、私は、この世界で考える。 

水のように動く草原の上を渡る 
波は、精神ではあり得ないのだ、 

枯れ草を鳴らしているその風が 
写真のように静止されたとしても、それは精神ではあり得ないのだ。 

この世界で、もっと深い色調を飲み込み、 
そうしてから、私は私となり、話し、振る舞うのだ、 

そして、メロディーは、私があると思うから、 
青いギターの上にメロディーはあるのだと、私は言う。 


29  
カテドラルの中だった、私はそこに座っていた、一人で、 
実のない「レヴュー」を読んでいた、こう書いてあった。 

「穹㝫のなかのドギスタシオン は 
歴史と祝宴に対照している。 

カテドラルを超えて、外に出ているものは、 
婚歌と相殺する。 

そうして、坐すことと、釣り合いをとることは 
向かう、向かう、静止の点へと。 

一つの仮面について相似と言うことは、 
他の仮面が相似と言うことであり、 

釣り合いとは完全な静止でないと知ることは、 
仮面は、未知のものでありながら、何かに相似であると言うことだ。」 

形はずれていて、音は外れている。 
鐘が雄牛のモーと唸る音だ。 

それだと言うのに、この想像力を増大させる望遠鏡の中で、 
フランシスコ修道士、スペインの人は、どうしても彼自身なのだ。 


30 
今から、一人の人間を開花させてみよう。 
その人間のこれが霊だ、古いフォントーシュ[ 操り人形 ] 

ショールを風にたなびかせている、 
舞台に立ってるようにも見える、そうして、数百年かかった 

大仰な彼の研究の成果を吐き出して見せた。 
そして、彼としたことが、重い線を 

抱える電柱の横木で、視線 
円錐の視線を、ありふれた郊外の町、 

その土地の分割払いの半分は終わってる、
ウシン[ 牛神 ]に投げて見渡した。 

ポツポツと滴が落ち、カタカタと太鼓群が鳴り、
自動車の上の叉銃が連射されている。 

視よ、この人なり[ Ecce Homo ]、ウシンは種なのだ 
琥珀色の余韻の莢から落ちて来たのだ、 

ウシンは炎の先の煤、 
ウシン[ 牛神 ]はウシン[ 有神 ]。   

31 
雉子は長々とずっとずっと眠る…、 
雇う者と雇われる者が互いに言い張り、 

互いに負かそうとし、そして、滑稽な事案を調停する。 
ふつふつの太陽が噴き上がり、 

そして、鋭い光線と雄鶏の金切り声を撒き散らす、 
それを、雇う者と雇われる者は聞いている筈だが、 

自分たちの仕事は続けるらしい。金切り声は 
薮原を苛め立てるらしい。こんな場所では、 

心像に、天空の博物館に収められ 
動かない雲雀には居場所がない。雄鶏は 

眠りをきっと切り裂くのだから。朝になるのは太陽だからではない、 
この、神経の形態のことなのだ、それは、 

そのタッチが優しくなった奏者が 
青いギターのニュアンスを手中にしたのと似ている、 

その時の曲は、あのラプソディー以外にはないだろう、 
そのままのメロディーのあのラプソディーだ。 


32 
光を当てるんだ、はっきりとした輪郭が現れる、 
そうして、あれは何々、あれは然然と、 

暗闇の中に見える物について話すがいい、 
でも、朽ち果てた様な名称は使ってはいけない。 

空間が抱えている歪みについて何も知らず、 
それの巫山戯た始まりについても何も知らずに、 

どうやってこの空間を歩いてきたのだ? 
光を当てるんだ、物の形象を捉えた時には、 

その形象の外殻はすでに壊れているのだから 
自分と捉えた形象の間には何もない筈だ。 

そこに居るのが自分? 紛れもない自分。 
青いギターが私を驚かせる。   


33 
朝の陽が舞い上がる埃を光らせる中、 
「発生する」夢は、土の中へ落ちていった、 

そうなのだ、夢が始まった時ではない、 
二つの夢が鬩ぎ合う、夢が始まった時ではなく、 

夢が終わろうとしているところで、人々はそれがただの夢だったと気付く。 
二つの夢、一つは、夢が始まった時に、パンであったものの夢、 

もう一つは、実際には石であるものの夢。パンは 
私たちのパンになりたいのだ、石は 

私たちのベッドになりたい、そして、私たちは夜には寝るものだし、 
昼には忘れているのだ。ただ、 

意を決して、想像上の松、想像上のカケス 
を奏でようとした時には、それを思い出すのだ。 


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