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ウォレス・スティーヴンズ「 Sunday Morning 」訳

ウォレス・スティーヴンズの詩集『Harmonium』の中の「 Sunday Morning 」 


http://wallacestevens.com 

https://en.wikipedia.org/wiki/Sunday_Morning_(poem)


ペニョワールでご満悦、で、陽 
のあたる椅子で遅いコーヒーとオレンジ、 
で、絨毯の上を自由気儘に歩き回る 
緑のオウムは古代の生贄 
の静けさを霧散させる。 
夫人は少し夢みる、と、水面に映える光が 
凪で暗くなっていくのに似て、大昔の破局 
が浸潤して暗くしていくのを感じた。 
たくさんの先のとんがったオレンジと 
きらきらする緑の羽が、うねうねと広い 
水面を音もなく進む死の行列に見える。 
過ぎる一日が広い水面の様なものだ、それは、 
音もなく静まって、王族の領地で墓場である 
静寂のパレスチナへと海を越えて進む夫人 
の夢みる足を迎えている。   


死者に夫人が寛大にならねければならないわけは? 
物言わぬ影になって、それも、夢の中にしか 
現れないとすれば、神格って何なの? 
日向の心地よさ、 
とんがったオレンジときらきらする緑の羽、でなければ、 
地上の美しさとやすらぎに、夫人は、 
天国への想いと同様な堅持するものを見つける筈じゃないの? 
夫人の内面で神格は確かに作動している筈。 
雨で昂る感情とか、雪の時に沈み込む気分とか、 
死別の悲しみとか、森の樹々に花が咲いた 
時の抑えられない喜びとか。秋の夜 
に湿った路上で突発的に沸く感情とか。 
夏の大枝が冬の小枝が記憶 
している喜びのすべて、悲しみのすべて。 
夫人の魂にとっては、それらは、決まった反応式だ。   


ジュピターは雲の中で非人間的な誕生をした。 
乳を与える母もなく、神話的な彼の精神に 
寛大な振る舞いを与える芳しい大地もなかった。 
ジュピターは私たちの中を移ろう、
いつも雌鹿たちの間を歩いていた時と同じで、 
堂々として、で、不平を溢す王の姿で、 
そうしてると、私たちの未開の領土は天国と混ざり合って、 
雌鹿がそれと分かる様な、望みの叶いを一つの星に齎した。 
私たちの領土は滅びるのだろうか? それとも、天国 
の領土となるのだろうか? それで、この地上は 
まるっきり天国の様だと、私たちは思い至る様になるのか? 
今は、苦悩と苦しみの空も、きっと、 
遠く隔たって地上には無関心な青ではなくて、 
もっと優しくなって、 
永遠に続く愛のすぐそばで栄光に浸ることになるだろう。    

Ⅳ  
「先ほど目覚めた鳥たちが飛び上がる前にね、 
耳に心地好い問いかけで霧深い草原が本当にあるのか 
押し測ってるのを聞くと、満ち足りた気持ちになるのね。 
でも、鳥たちが去って、鳥たちを歓迎する草原がもう再現し 
なくなった時、天国は何処にあると言うの」と夫人は常々言う。 
予言をする幽霊はひとりもいないし、 
墓所が映し出す幻想もひとつもない、 
魂がそこを故郷にしている黄金
の地下空間だって、美しい歌が聞こえる小島だってないし、 
架空の南方も、四月の新緑がずっともっている 
様にもっている、と言うか、夫人の目覚めた鳥 
たちの回想がもっている様に、と言うか、空飛 
ぶ燕が一番高く上がったところでくるりと翻る、 
あの六月の宵への夫人の切望の様な、 
天国の丘からは遠く離れた雲の様な椰子の茂みもない。   

Ⅴ  
「でもね、満ち足りていてさえもね、やっぱり 
朽ちることのない至福は足りないと思うの」と夫人は言う。 
死が美の母なのだ。と言うことは、死に依ってのみ 
私たちの夢や私たちの願望に満足感が 
もたらせると言うこと。私たちの小径、
恋焦がれて悲しみ辿った小径、 
勝利の喇叭が鳴り響いた、あるいは、 
優しく愛を囁いた小径、その私たちの小径に 
すっかりばらばらの葉が散っていても、 
夫人は、足を投げ出して座り草をいつも 
じっと見ている乙女たちのために 
陽光のもとで柳を揺らしている。 
夫人は、給仕たちに雑皿に、今年なった 
プラムや梨を盛らせる。乙女たちは味わ 
うと、うきうきとちらちらする葉の中に、迷い込む。  


天国には死という変相はないのだろうか? 
果実は熟して落ちることはないのだろうか? 枝 
は、私たちのこの腐り果てる地上のそれと似ているけれど、 
変相などせず、無欠の空にずっと掛かっているのだろうか? 
川は、海を求める私たちの知ってる川と似ているけれど、 
海へ至ることはまるでなく、そして、水が退いていくのはよく似ている 
岸は、不意の痛みを伴って触れてくることはまるでないのだろうか? 
そんな川岸に梨の樹を植えるのはなぜだろう、 
と言うか、プラムの香りを添えるのはなぜだろう? 
まったく、天国の人たちが、私たちが午後着る絹 
織物、それと同じ色をまさか着て、私たちのと同 
じ無味乾燥なリュートをまさか爪弾くなんて! 
死が美の母なのだ、神秘的な母なのだ、 
その燃え続ける胸の中で、私たちは、待ち焦がれながら 
眠れずに、この地上の母を創り出すのだ。  

Ⅶ 
夏の夜明けの太陽への陽気な祈りの中で、 
乱流のように変幻自在な輪になった男たち 
が、大童で歌っているのだが、太陽を神と 
しての祈りではなく、でも、男たちの中で 
剥き出しにされた未開の源として、神のように祈るのだ。 
男たちの歌は、彼らの領土から出て 
空へと戻る、天国の歌に違いない。 
男たちの歌の中の声、その一つ一つが、 
男たちの主が喜んでいる風の吹く湖に、 
熾天使のような樹々に、木霊する山々に、入っていく 
と、その歌は、その後も反響してずっと残るのだ。 
男たちは、いずれ腐り果てる自分たちの天国での 
教会、夏の夜明けの教会がしっかりと分かるだろう。 
そして、男たちがどこから来てこれからどこへ行くのか、 
それは、彼らの足に乗った露がはっきりと示すだろう。   

Ⅷ 
音のしない湖面に、泣いている一つの声が 
「パレスチナの墓所は幽霊が居残り続ける 
門口ではありません。それは、イエズスの
埋葬地なのです。」と言うのを夫人は聞く。 
私たちが生きているのは、太古の開闢の太陽の下、 
あるいは、太古の昼と夜が入れ合わさった時、 
あるいは、どこまでも広がる海の中で、どこにも定まらず 
何の支えもない、そして抜け出せることの出来ない孤島の中だ。 
鹿が私たちの山を歩き、鶉が 
私たちの側でのびのびと囀る。 
甘い液果が原野で熟れる。 
そうして、夕方、
切り離されたようにそれだけで存在している空の中、 
その時だけ一時的に群れた鳩が、闇へ向かって降下 
すると、広げた翼に、ふわりとした波形が出来る。   


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