日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その6
前回は鹿ケ谷の陰謀とそれに伴って後白河法皇と平清盛が対立する原因となった、比叡山の強訴についてまとめた。
あの一件により、平清盛は後白河法皇と決別していくのだが、二人はまだ完全に決別していたわけではない。
鹿ケ谷の陰謀にて、藤原成親や西光を殺したが、ほかの近臣たちはあくまで免官で済ませていた。
この二人の間が完全に破綻したのは、平清盛の息子であり、後白河法皇とのパイプ役を担っていた平重盛が亡くなったからである。
重盛は鹿ケ谷の陰謀で清盛に、義兄であった藤原成親の助命を頼んで聞き入れられず、政治への意欲を失い、心労から病が悪化し内大臣を辞任した。
そして病はますます重くなり、重盛はついに病死してしまったのである。
彼が死んだことは、後白河法皇と平清盛の間を取り持つ存在がいなくなったことを意味する。
そして、ここぞとばかりというべきか、後白河法皇は重盛の知行国であった越前を取り上げ、院近臣である藤原季能を越前守に任命したのである。
知行国とは、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権、すなわち、国司を推薦したり、その国からの収益を得る権利を公認したものだ。
その権利を重盛が死んだら用済みと言わんばかりに、後白河法皇はそれを取り上げ、自分のお気に入りに与えたのである。
これに前後してしまうが、後白河法皇は重盛の妹である白河殿盛子が所有していた荘園を彼女が亡くなった後に全て没収されてしまった。
盛子は夫である近衛基実に嫁いでおり、彼女は夫が亡くなった後に摂関家が所有する莫大な荘園をそのまま相続していたのであった。
これに対して九条兼実は自らの日記である玉葉に「(世間の噂では)異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」と記載するほどだった。
本来、彼女が相続していた摂関家の所領は、基実の子である基通、もしくは盛子が准母となっていた高倉天皇が相続するのが筋であったのだが、後白河法皇は彼女が死んだことをまるで幸運とばかりに事実上すべて没収したのである。
後白河法皇としては、単に重盛と盛子が亡くなった以上、その対策を取ったに過ぎなかったと思う。
そのついでに自分の権力を強化するために、知行国を取り上げ、盛子が相続した莫大な所領を自分の手中に収めようとした。
だが、清盛からみれば、後白河法皇は自分の息子と娘を軽んじている上に、その死をまるで喜んでいるかのようにも思えただろう。
そして、延暦寺の攻撃を命じたように、全ての不始末は平家に押し付け、自分たちは安全な場所に隠れて好き放題なことをやる。
そして、さらに清盛にとって激怒するべき事件が起こる。
関白・松殿基房の子で8歳の師家が20歳の基通を差し置いて権中納言になったのである。
基房は摂関家の所領を盛子に奪われたことから、平家を憎んでいた反平家の急先鋒とも言うべき人物だった。
そして、近衛基通に清盛は自分の娘を嫁がせており(盛子は彼の養母)基通を支援したのだが、面目を完全に潰されてしまったのであった。
しまいには親平家であったはずの延暦寺でも、この時期反平家勢力が台頭して内紛まで起きていた。
そして、実は後白河法皇にとっては不運なことに、同時に清盛にとっては幸運にも、高倉天皇は治天の君になろうとしていたのである。
高倉天皇はこの時期(1179年)にはすでに元服しており、息子である安徳天皇も生まれていた。
そして、高倉天皇は清盛の婿であり、安徳天皇は清盛の娘である徳子が生んだ清盛の孫でもあった。
つまり、清盛はかつての摂関家のような摂関政治と共に、自分の意になる天皇を上皇にし、自分の孫を天皇にするだけの環境が整っていたのであった。
全ての環境が整った清盛は、自分の息子と娘が死んだら用済みとし、自分の院近臣たちだけを寵愛する後白河法皇に対してついにクーデターを実行したのである。
治承3年(1179年)11月14日、豊明節会の日。清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。
15日には基房・師家が解官され、正二位に叙された清盛の婿である基通が関白・内大臣・氏長者に任命された。清盛の強硬姿勢に驚いた後白河法皇はは、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れた。
ここで周囲は和解するのではないかと思ったが、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰し、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官された。
この中には、清盛の弟である平頼盛もおり、彼は右衛門督を解任されてしまったほどである。清盛は徹底的に、後白河法皇の政治生命を絶ち、二度と院政ができないようにしたのである。
そして、平家は知行国は反乱前の17ヶ国から32ヶ国となり、平家一門はこの世の春を謳歌することとなった。