日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その7
前回は後白河法皇が再び院政を停止させられたことをまとめた。
今回は改めて、後白河法皇という人物の性格やパーソナリティについてまとめていく。
後白河法皇はここまで読んでくれた方ならば分かるが、政治家としては決して有能ではない。
むしろ、無能でありそれも非常にたちが悪い自分でアレコレ支持を出して活動を行うタイプの無能である。
平治の乱の際までは信頼を制することが出来ず、そして信西を庇うこともできずに後白河法皇は側近である信西を失い、そして、自分の寵愛を受けながらも幽閉に追いやり信西を殺した信頼にひっかきまわされてしまった。
その結果、後白河法皇は成長していた二条天皇に対抗することもできず、院政が始まってから初めて天皇による親政を実行させてしまった治天の君になってしまった。
本来、院政というのは治天の君である上皇の方が有利なのである。
白河法皇が存命中は鳥羽上皇は治天の君になれず、そして鳥羽上皇が治天の君になった後、崇徳天皇も逆らうことが出来なかった。
そうした中で、後白河法皇は息子である二条天皇に親政をさせてしまった時点で、白河法皇や鳥羽上皇よりも政治力に劣っていたと言わざるを得ない。
もともと、二条天皇を天皇にするための中継ぎに過ぎないお飾りの天皇に過ぎず、まともなブレーンもほとんど持たなかったバカ息子であった後白河法皇と、美福門院の養子となり幼いころから英才教育を受け、その期待に応えた賢王である二条天皇とはできが違っている。
結果として二条天皇は若くして亡くなったが、彼が長生きしていれば、逆に彼が治天の君として君臨していた可能性は非常に高い。
そして、後白河法皇は人を見る目がハッキリ言うとなかった。
その一例が、平治の乱の首謀者である藤原信頼であり、彼は後白河法皇の寵愛を受けながらも平治の乱を起こしてしまいには後白河法皇を幽閉するという暴挙に出た。
そして、信西を殺したことで彼は二条天皇親政派にとっての障害を消したことで、クーデター後の主導権が取れず、敗北して六条河原で斬首されてしまった。
自分の欲望の為ならば、恩人である後白河法皇をすら幽閉し、しまいには本来の政敵である二条親政派と手を組んで共通の敵である信西を殺し、後白河法皇の院政を停止に追いやるほどの致命傷を与えるような人物を寵愛していたことは、いかに後白河法皇が人を見る目がなかったことを証明する証拠である。
むろん、信頼だけではない。この後、後白河法皇が三回目に幽閉されることとなる木曽義仲との戦い、法住寺合戦においても、後白河法皇は自分のお気に入りというだけで、軍事には素人である平知康に指揮を取らせた。
平知康は鼓の名手であり、鼓判官という異名を得ていた。後白河法皇の側近であった院近習であり、彼は今様も得意としているために後白河法皇に寵愛されていた。
だが、彼は軍事に関しては素人、というよりも無能と言ってもいいほどに役立たずな人物であった。
そんな人物に、北陸で平家を撃破して上洛してきた木曽義仲の軍勢を渡り合えるわけもなく、法住寺合戦は一日どころか半日で鎮圧し、後白河法皇は幽閉されてしまったのである。
自分のお気に入りであれば、任せる仕事が能力に適していなくても任せてしまうのが後白河法皇の欠点である。
その欠点は終始治ることはなく、後白河法皇は全く反省すらしていなかった。
法住寺合戦については後程詳しくやるのでここでとどめておくが、後白河法皇はお気に入り人事を非常に乱発しており、その人事は非常に支離滅裂であった。
故に、後白河法皇の政治というのは基本的に上手くいかないことがほとんどであった。
平清盛と決裂する切っ掛けとなった、嘉応の強訴では、後白河法皇は一度は比叡山の要求をのんでも、土壇場でそれを覆してしまったことも、後白河法皇に確固たる政治理念、というよりも為政者としての徳と責任感が欠片もないことを証明している。
強訴をうけいれないならば、盛大に戦えばよかったし、受け入れるならば要求を飲むのが筋である。
後白河法皇は比叡山をだまして余計な恨みまで買うことになった。
後白河法皇のイメージにある策謀家だが、確かに彼は策謀家ではある。だがその策謀は子供だましの策謀であり、事態をひたすら悪化させるというはた迷惑な代物であった。
後白河法皇は深謀遠慮の人ではない。一度決めた裁定をひっくり返すなど、比叡山はさらに激怒して強訴してくるだろうし、丸く収まるわけがないのは考えればすぐわかることだ。
実際、嘉応の強訴の後、再び白山事件で強訴し、嘉応の強訴と同じく、国司の流罪を要求してきた上に、今回は本当に流罪する羽目になった。
つまり、より事態は悪化していったのである。普通に考えれば、どこかで落としどころを作るなり、事態を収拾するべく行動するのが為政者の務めであろう。
後白河法皇にはそうした深謀遠慮さは全くないのである。だからこそ、その場しのぎの子供だましの策で誤魔化そうとし、相手にさらなる怒りを与えて事態を悪化させる。
重盛と盛子の死に対しても、平家との関係が悪化している中で、死んだら用済みとばかりに知行国と所領を奪った。
その結果、どういうことになるのかという予測を全く立てていない。立ててはいても、非常に楽観していた結果、清盛により政変を起こされてしまった。
呉座勇一先生の指摘の通りである。後白河法皇は長期的視野に基づく戦略的な思考など皆無であり、判断が常に場当たり的でそのすべてが裏目に出る。
九条兼実は、信西が他人に話した後白河法皇の性格をこう書き留めている。
「和漢の間、比類少きの暗主」。その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」
つまり、暗君だけどいいところは一旦やろうとしたことは、人が制止することも厭わずに実行するということだ。
実際、後白河法皇は自分がやろうと決めたことは絶対にやろうとする人物であるが、それは信念などではなく、我執我欲に凝り固まった執念からきている。
だからこそ、嘉応の強訴を無理やりなかったことにしたし、意地になって比叡山と対決した。
木曽義仲を討伐しようと決めるも、対した兵力もなく、優れた指揮官でもない、むしろ無能な平知康に任せ、その結果、負けるべくして負けてしまった。
行動力は確かにあるが、全くそれをコントロールする力がなく、ピッチャーで言うならば、球速とスタミナはあってもストライクゾーンに入れることが出来ないヘボピッチャーと言ってもいい。
ここで断言するが、後白河法皇は無能な人物なのだ。だからこそ、彼は周囲をひたすらひっかきまわし、事態を悪化させて他人に後始末をさせる。
それでいて、自分は賢いと思っている節と、やると決めたら絶対にやるという意思だけは強い。
非常にたちが悪い、為政者としては失格どころかそこに大、下手すると超をつけたくなるほどの失格者なのである。
そんな人物が日本一の大天狗だ、陰謀家だ、というのがいかに虚構の作り上げた幻影にすぎなかったか、ここまで読んでくれた人ならば分かるだろう。
次回は、そんな暗君であるはずの後白河法皇が、何故このようなイメージがついたのかを解説していく。