境界をふみ越えられる人がうらやましい
昨日は休日。私にしてはめずらしく、友人に誘ってもらって、久しぶりにベルリンの街中で遊んできた日だった。
昨日会った友人とは、まだ知り合って2か月くらいで、会うのも3回目とか。でも、久しぶりに出会った同年代の日本人という友人に、私はとても嬉しくなっている。
それで、友達のなり始めに、私はいつも思うことがある。私は勝手に相手と自分の優劣のようなものを図ってしまうし、優れている相手に見合う自分でなければと取り繕ってしまったりする。
しょうもないなぁと思う。でも、たぶん中学生の頃には身についたであろうこの振る舞いを、私はまだ手放せていない。
昨日の友人に対しても、私はやっぱりそうだった。会社に勤めていて、ベルリンへやってきた彼女。生い立ちなんかを聞いていても、「私とは違う世界のすごい人だ」と、勝手に崇めてしまいそうになる。
そんなこと、本当は必要がないことはわかっている。みんな対等に振る舞っていい。けれど、私はなんとなく、この素敵な友人に見合う私でなければと、肩肘を張っていたと思う。
それが崩れ始めたのは、彼女の「境界のなさ」を見てからだった。たとえば、ドリンクをひとくち分けてくれる。途中で買ったお菓子を、食べてみる?とひとくちくれる。その後のラーメンも、ひとくち食べさせてもらった。
昔だったら私も、こういう時代があったような気がする。いつだろう、高校生とかなのか、大学生や社会人とかでもやっていたか。
ひとくち分け合うというのが、「女の子の気遣い」みたいな振る舞いに思えたとき、私は鬱陶しくなってその振る舞いをやめた。
けれど、昨日の彼女は違った。とても自然に、ただ幸せを分け合うこととしてやっているように見えた。こんなに簡単に、個というものを越えられるのだと思ったし、私も自然とお返しをしていた。
個と全体というのは、ちょうど最近知って私のテーマに仲間入りしたもの。私たちはそれぞれに体があって、個として存在をしているように見えて、実は全体なのだということを知った。
スピリチュアル的な話になるけれど、生まれる前の私たちや、亡くなってからの私たちは、個としてわかれていない全体なのだと。全体から個となり体に入って生まれてくるけれど、本質的には全体なのだと。そういう話だと、私は理解している。
この概念を知ってから、またもう一段、世の中の見え方が変わった。私も全体なのだと思えることで、私にできないことをやってくれている他者への思いが変わる。
「その役割をやってくれてありがとう」と思えるし、本来は個ではなく全体という見方をすれば、そのひとのあり方も私なのかも……なんて拡大をして見るようになった。
話は戻って、昨日の友人。とても自然に幸せを分かち合うような彼女を、私は少しうらやましく思った。こんなふうに自然に振る舞えるって、素敵だなぁと。
その後ひょんなことから、ホロスコープを見せてもらった。太陽が魚座で、その他も含めて魚座が強調されている方で、なるほどなと思った。魚座といえば境界がないと言われる星座。彼女にとっては、この振る舞いはいたって普通のことなのかもしれない。
太陽が射手座で、まわりとの境界がハッキリしていて、わりと距離をとってしまう私には、やっぱりうらやましく思えた。彼女の素敵なところを、私も少しもらってみようと思ったのだった。