共通感覚の歴史とメディアの進歩についての考察
本稿における共通感覚とは、かつて「五感が共通して感覚する対象」すなわち形や時間・運動などを知覚する能力であり、触覚と結びつけられて解釈されてきた。ここでは、その「共通感覚」の歴史と、各時代ごとのメディアの進化を結びつける言説を投稿してみようと思う。これは典型的な「メディアの特性を文化的事象に結びつける」論法であり、私の卒業論文でも扱った。あえてその論法を自分も使ってみることで、どこに論理の飛躍や単純化が潜んているのかをさぐる手がかりを得たいと考えている。
古代から中世・五感の統合・聴覚的基盤としてのメディア
古代から中世における共通感覚(common sense)とは、アリストテレスによって提唱さた概念である。彼によると、「共通感覚」とは五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)が統合される場所、つまり感覚情報を一つにまとめる機能を指す。中世の哲学者たちはこの概念を発展させ、感覚情報の統合や判断の基礎として考察した。特にトマス・アクィナスは、この共通感覚を触覚と同一視し、霊魂と関連の強い感覚だと述べた。この時代、すなわち口承時代のメディア形式は、口頭伝承・物語・歌である。この時代の共通感覚解釈としては、聴覚と記憶に依存し、直接的・身体的な情報伝達が考えられる。人々は物語や伝説を通じて知識を共有し、これらは集団的な記憶と理解の基盤を形成した。このような感覚情報の統合は、聴覚的な情報が中心である。また、聴覚により共有された文化的・社会的価値観によって共通感覚観は形成されたともいえるだろう。
ルネサンスと近代・判断に関わる共通感覚・視覚的テキスト
ルネサンスと近代における解釈では、共通感覚は感覚の統合だけでなく、知覚の理解や判断における役割が強調された。近代に入ると、デカルトやロックなどの哲学者が感覚と知識の関係を探求したことで、共通感覚は理性的判断の基盤として再定義された。一方で、この感覚統合のイメージはグーテンベルクの印刷術に代表される「活字テクストによる視覚的統合」に近いのではないだろうか。具体的には、理解や判断に関わる情報はテキストとして固定された点や、活字情報の大量生産と配布による知識の伝播が類似しているだろう。このような「テキスト(視覚)を通じた知識の伝達」に関わる共通感覚観は、情報の解読・理解・分析を行うための理性や批判的思考を強調する傾向にある。ここでは、読書行為自体が、情報を統合し、意味を理解するプロセスとして考えられている。
20世紀以降・常識としての共通感覚・即時的メディア
20世紀以降においては、心理学や認知科学が発展した。それにより、共通感覚は個々の感覚入力の統合と、知覚の形成を説明する一つのフレームワークとして解釈されるようになった。この時期には、共通感覚が文化や社会的な文脈に依存する可能性も議論され始めた。共通感覚の解釈は、電気メディアにより視聴覚が統合されたことも影響し始め、「情報の即時性」が強調されたように感じる。ここでの共通感覚とは、音声(ラジオ)や映像(テレビ)を通じて共有される情報を理解、解釈する能力も指すだろう。これらのメディアは感情や雰囲気を伝える力も持つ。つまり、文化的な「共通感覚」はより感情的・社会的経験に基づくものになった。具体的には、マクルーハンの「メディアはメッセージである」という概念が示すように、メディアの形式自体が共通感覚に影響を及ぼすという見方が広まった。
現代・メディアリテラシーとしての共通感覚・グローバル共通感覚
現代の共通感覚と電気メディアの関係として挙げられるのは、インタラクティブメディアやSNSのアルゴリズムのような技術と共通感覚の関係である。インタラクティブなメディアとは、現代の電気メディアすなわちインターネットやデジタルデバイスのことである。これらは、共通感覚をさらに複雑化しているように思える。これらは視覚、聴覚、触覚(特に触覚フィードバックなど)などの多感覚情報を一体化することが特徴だ。ユーザーは情報を能動的に操作することができ、VR(バーチャルリアリティ)やAR(拡張現実)においては、視覚・聴覚・触覚的統合と、全感覚的体験に没入することができる。
SNSのアルゴリズムとは、情報過多と選択の自由に関わる技術を指す。後述するこのアルゴリズムの特徴を踏まえれば、現代の共通感覚は、情報の洪水に対処する能力に依存しているといえるだろう。具体的には、インターネットの膨大な情報量は、個々の感覚情報がフィルタリングされたことで、重要なものを選択する共通感覚の役割を強めている。また、ソーシャルメディアや個人化されたコンテンツ推薦システムは、個々の感覚情報をユーザーの興味や価値観に合わせて統合するシステムだと解釈できる。
共感覚と情報の解釈としては、電気メディアによる共感覚(synesthesia)的体験の提供が挙げられよう。例えば、視覚情報が聴覚情報に影響を与えられているような事態を指す。特に現在のメディアでは、テキストが画像や音と共に解釈されるような状況が発生する。共通感覚を感覚間の判別や翻訳に関わる能力だと解釈するならば、「どのように情報を一体化し、理解を促進するか」の理解にもこのようなメディア特性が関わっているといえるのではないだろうか。
文化的・社会的側面からみた共通感覚としては、メディアによるグローバルな情報交換や、多様な文化的視点の共有が挙げられよう。これは一種の「グローバル共通感覚」といえるのではないだろうか。しかし、同時に「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」といった問題も発生している。このように、共通感覚は個々の情報環境によって異なる可能性がある。だからこそ、われわれには共通感覚としてのメディアリテラシーが求められるのではないだろうか。この能力の内実としては、情報の真偽を見極め、批判的に考える能力である。メディアの急速な進歩によって、メディアリテラシーの必要性を増大させるばかりか、情報を処理し理解するための新しい共通感覚の形成が我々に要求されている。
このように、共通感覚は単なる感覚の統合から、文化的、社会的、技術的な文脈に深く根ざした、より広範で複雑な概念へと進化したといえる。口承から活字へ、そして電波メディアを経てデジタルメディアへと移行するにつれ、共通感覚は単純な感覚の統合から、多様な文脈を理解し批判的に考察する能力へと進化した。これは、メディアが人間の知覚と理解の方法をどのように形成し、変容させるかを示す一つの歴史的物語でもあろう。日本語文献においては、論者によって時代の象徴とする感覚は異なっている。マクルーハンの場合は共通感覚たが、オングの場合は聴覚であり、養老孟司は聴触覚である。そして、本稿にインスピレーションを与えた『共通感覚論』の著者、中村雄二郎は共通感覚を据えている。この本では、共通感覚を体性感覚と捉え直すことで「視覚による統合の根底にある身体感覚の復権」を訴えている。