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療育にまつわる身体へのまなざし vol.55
10月から 「ニューロマイノリティ」の第9章を読み始める。「内側から人を理解するということ」の、今回は「1、二分法的な理解への反省」の項。参加者同士の対話の中で、「大人から子どもへ、コトバを浴びせすぎている、説明しすぎている気がする」といった意見が出たことが印象的だった。私も放課後デイで、常々感じていることの1つである。ダンサーという、からだで理解することを重ねてきた身としては、この言葉への重きが、どこからくるのだろう、とずっと考えている。
筆者は、言葉が、「実際の具体的な世界の認識においては限界、時にはマイナスの原因になる」とも書いていて、発達に特性のある子どもの世界を認識する際に、言葉の用い方に注意深くあらねばならないと同時に、当事者が一般言語で表現する努力を続けることの大切さも述べていた。では、言葉ではなく、からだで理解に努めるとは、どういうことになっていくのだろう…。ということを、私が別枠で開いている「のびのびばplus」で、来月より扱っていきたいと考えている。感覚からフォーカスしていくことになりそうだが、ある当事者の書物を軸に進めていこうと思う。こちらは12/14、13時より。@豊中市内。
そして、後半は、「「ふつう」という檻」(信濃毎日新聞社編集局 著 岩波書店)を参加者のファシリテートで読み始める。この本は、今年はじめに、新聞労連ジャーナリズム大賞優秀賞を受けるなど、話題になった本でもある。内容は、新聞の連載記事をまとめたもので、読みやすく、今の日本における「ふつう」が、多方向から立体的に立ち上がってくるような感触のある初回で、自然と参加者同士の対話もはずんだように思う。次回も楽しみである。