療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.56
7月の「バオバヴカフェ」は、引き続き、「ニューロマイノリティ」(横道誠・青山誠 編著)と、「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」(エヴァ・キティ・フェダー著)を読む。当初は、それぞれ分けて話を進めていたが、今回は、話題が交わる部分もいくつかあり、この共有感は、なんだろう、、、
両書物に共通することとして、外側からすると、非常にわかりにくい、見過ごされやすい、繊細な問題を扱っているところだろうか。そこを丁寧に丁寧に言語化している印象がある。
それらについて「はら落ちさせる」戦略は大切だと、という意見が出た。
著者エヴァの娘の(障害を持つ)セーシャという人間存在について、想像力でもって、考え続けること。
成熟した発達障害成人とは、、ということについて、想像力でもって、考え続けること。
当事者ではないかもしれないけれど、想像力でもって、考え続けること。
わからなかったけれど、知らなかったけれど、「なるほど」と、はら落ちする感覚でもって、理解するとはどういうことか…
この2つの書物は、そんなことを沢山の言語を用いて、でも実は、伝えたいことは、とてもシンプルな感触だ。
ただ、その伝えたいことが、これまでの慣習だったり、教育だったり、無意識のバイアス塗れの中にあるようで、というか、そんなところにあるからゆえの、伝えたいことなのかもしれない。
引き続き、今月8/30も、両著を読んでいく予定だ。
以下「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」(エヴァ・キティ・フェダー著)を、ナビゲートしてくださっている花沙さんの「雑感」です。
今回は、今回は、エヴァ・フェダー・キティ著「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」(白澤社2023)の第7章「違いのある子どもへの母的思考」の内容、「理論家のための教え」の部分をシェアしました。
・・難しい、よく分からないというのが正直な感想です。ただ、キティが経済学者で哲学者のアマルティア・センの自由・平等論に依拠している・・という部分は、なんとなく分かりました。
例えば、良い健康状態を保つことはどの人にも推奨されていて、いくつか福祉的なサービスも実在しています。それを選択する自由を私たちは「潜在能力的」に持っています。しかしながら例えばセーシャがリハビリのために水泳に行くことは自由なのだけど、セーシャの場合は、一人で行くことは不可能で、ケア提供者と同伴でなければ行けません。水泳の利用料を免除(割引)されるだけでは、全く不十分ということです。ケア提供者に対する支援金もセットでなければ、セーシャの場合は「不自由」で「不平等」となります。以下、引用します。
「もしセンの言う潜在能力の平等がつながりを基盤とした平等であるならば、依存関係はいかにすれば維持されうるか、機能の幅がいかにして調整されるかも考慮されねばならない。」(p329)
次回、この辺の理解をもう少し深められたらいいなあと思いました。
*本書は、子どもや高齢者、病気の人、障碍者等を「依存者」とし、彼らへのケアを「依存労働」と呼んでいます。人間である限り、誰もが「依存者」である時期は避けられません。その時期、誰かがそのケアを担わなければなりません。キティは、その事実が覆い隠され、見過ごされながら、平等論が語られていると批判しています。