「超」という複雑さ
「超」って端的に上位互換という表し方でいいのだろうか?かなり複雑じゃねっていう話。
一般的に「超○○」というのは「○○」の上位互換とされる。
「やばい」よりやばいのが「超やばい」。
「うざい」よりうざいのが「超うざい」。
超サイヤ人は、サイヤ人を超えたサイヤ人である。
今より超えた状態を表すのが超だろう。
スーパーサイヤ人は戦闘力という指標が上がっているので超である。
この指標の軸は、それを観察する全ての人間の視点において統一されている。
しかし、超えることで元に戻ることもある。
「1週回ってこの考え方に行きついた」というような場合はこれに値するだろう。ただ、その超えた先は現在も超えているので、現在も含まれた超えるになる。
平面での元の状態に戻る感覚というより、3次元の別の軸を有する螺旋に近い。
2次元から3次元の軸へ移行する。
そこに軸は存在する。
しかし、その軸はある一定の視点から見つめたものであって、違う視点から見たら、逆転することもある。
ただ、それが良くなるか、悪くなるか関係なく、現在の状態を超えた状態である。上位互換にも下位互換にもなりえる。
どちらも超なのであるが、視点の違い個人の価値観により、一方は排除されうる。
超のような上位互換とする認識は可能であるが、現在は全て皆、点であるといえる。
軸を設定した瞬間、他を見た瞬間から、超という概念が生まれる。
周りより際立つのが超越なのか、全てと溶け合うのが超越なのか。
どちらも超越なのだが、前者のほうが昨今使われる意味に近いだろう。
後者の超越は、底上げにつながり、一人勝ちという貧しい勝利ではない。