かっこいい・ダサい判断軸
個人の行動・価値判断の軸が、従来の良い悪いといった善悪論や、道徳、法律への限界を感じる。
良い悪いという定義は相対的なものであり、絶対的な普遍的なものを法としているが、法そのものが国家を安定させる目的でつくられるものであって、国外へ出たらそれが適応されなくなる。
他国の多様な情報を簡単に得られ、国との往来が容易に可能な現代において国のルールというものを、機能させることが難しくなる。
法律や倫理が、絶対的なもの神や自然の法則から得られたものであれば、すべての国は同じ法律を持ち、国家の安定という短期的な目的ではなく、人類の繁栄や地球の存続といった長期的な安定に基づいたルールとなるだろう。しかし、そんな真理や全知を得るものはいない。
法や道徳は、その短期的目的が故、自然法則とは少しずれる部分が存在する。すべてがずれるわけではないが。
この個人単位の行動を決定する軸、善悪や良し悪しが不定になってきている現代において、この行動の軸は、かっこいいか?ダサいか?のような不定で感情的な軸にまで思考はおちるのではないかと思う。
私にとって、これはかっこいいからやる。
かっこいい人になりたいからこれをやる。
ダサくなりたくないからこれはやらない。
自発的・能動的なかっこいいからくる行動は、あまり自然の法則とずれがないんじゃないかなと思う。
軸は自分であって、魅せる対象は自分である。
相対して、
かっこいい人がこうやっていたから真似てみる。
これをやったらかっこよくなるって言うからこれをやってみる。
ダサく思われたくないからこれをやらない。
このような、受動的な焦燥感や劣等感を持つ、かっこよくなりたいからくる行動はずれが生じる。
軸が他者であり、他者は無限に存在するためなにがかっこいいかダサいかの区別がつかなくなる。
案外、行動の軸において、直観を要するかっこいいか?ダサいか?は使えるのではないかと思った。