家族・共同体は、どの主義が望ましいのか?
結婚は国と国とが合わさること。家族は国や共同体と言い表されるのをよく耳にする。
では、ある意味で国の最小単位とも言える家族は、どの主義が望ましいのだろうか?政治形態の、独裁主義、民主主義、経済の仕組みの、資本主義・社会共産主義。政治思想の、自由主義、その他のどの主義に属するだろうか?
また、その他の理想の国=家族のあり方は存在するのだろうかを考えていく。
ここでの結論は、「これが理想の家族の形だ!」「○○主義以外ありえん!」というような提示とはなりません。
結論だけを求めている方には沿わない内容となるため、いただく時間が申し訳ないのでスルーしてください。
また、だらだら考える時間や余裕がある時などに、ふらっと寄ってくださるとうれしいです。
ここでの家族は夫婦のみまたは、夫婦と子の核家族を想定する。
夫婦の能力はお互い同等のものであると仮定。
家族は「豊かさ」を最大限高めることを目的とする。
「豊かさ」とは大きく「物質的な豊かさ」と「心の豊かさ」に分けて考える。
家族の「物質的な豊かさ」「心の豊かさ」「個人の自由」について言及していく。
家族の仕組み
国の構成要素は、領土・国民・政府(主権)の3つである。
家族を国と置くと、領土は住居、国民は夫婦、政府は家族の意思決定と置かれる。
家族=国の目的は豊かさを高めることであるため、豊かさを最大化するための国民と政府の役割について、現代の夫婦の構造に着目し述べていく。
構造で高めることが可能なのは、「物質的な豊かさ」のみであり、「物質的な豊かさ」「個人の自由」に論点を置く。「心の豊かさ」については後述していく。
※本来の意味と少々離れてしまうが「労働=お金を稼ぐ行為」、「福祉=生活基盤を整える行為(家事)」とする。
①夫が稼ぎ、妻は家事や家計のやりくりを行う家族
夫は仕事で稼ぎ、妻は家事や家計のやりくりを行う家族がある。一昔前では、男性が社会進出しやすい社会背景もありスタンダードとなっていた。家父長制のようなものだ。
家族を国と見立てた場合
夫:国民/労働 主にお金を稼ぐことに従事
妻:国民/福祉 主に福祉の充実に従事
夫婦両方またはどちらか一方:政府=豊かさの最大化の元、税金を徴収し使途(政策)を決定する機関。
夫(国民/労働)がお金を稼ぎ、夫婦どちらか一方か両方(政府)に税金を収めることで、その税金の一部から妻(国民/福祉)が衣食住遊(福祉)を充実させ、政策により、家族(国)を豊かにしていく仕組みだ。
社会背景もあり、妻より夫の方が効率よくお金を稼ぐことができていたため、このような役割分担が推奨される。
家族(国)の「物質的豊かさ」を最大限上げる方法
夫(国民/労働)の役割:
自身の能力の中で一番効率の良い経済活動を行い、自分の時間の全てを使い、より多くのお金を稼いで全額を税金として納めること。
妻(国民/福祉)の役割:
夫からの税金を最小限で使いながら、自分の時間を全て使い、より効率の良い形で生活基盤を整え充実させること。家事は生活基盤を整える行為でありお金稼ぎとはならないため、妻が従事するのがこの場合であれば効率が良い。
政府の役割:
夫婦の生活の中で残った税金を全て使い、家族の目的(豊かさを高めること)に沿った政策を行う。
結果、国の「物質的な豊かさ」は高まる。
各々が専門特化した行動により、家族の「物質的な豊かさ」を最大限高めるというのがこの仕組みだ。
この仕組みの特徴は、各々が専門特化のSpecialistであるという点である。
この仕組みは、お互いが家族の「物質的な豊かさ」に基づいた、社会・共産主義的であるといえる。
正当な夫婦関係であればパワーバランスが均等であり、税金の使い道は両者合意の決定で行われ、家族の「物質的な豊かさ」が夫婦個人の利益ともなり肯定されていくだろう。そのため、「個人の自由」を求める必要がなくなる。
②共働きの家族
共働きとは、夫婦ともに働きお金を稼ぎ、家事や家計のやりくりも二人とも行うというものだ。
最近のスタンダードはこちらの夫婦が多いのではないだろうか。どちらかだけが優先して家事をやるという例はここでは含めない。
家族を国と見立てた場合
夫:国民/労働/福祉 労働力でお金を稼ぎ、福祉も行う
妻:国民/労働/福祉 労働力でお金を稼ぎ、福祉も行う
夫婦両方またはどちらか一方:政府=豊かさの最大化の元、税金を徴収し使途(政策)を決定する機関。
夫婦(国民/労働)がお金を稼ぎ、夫婦どちらか一方か両方(政府)に税金を収めることで、税金の一部から夫婦(国民/福祉)が衣食住遊(福祉)を充実させ、政府の政策により、家族(国)を豊かにしていく仕組みだ。
家族(国)の「物質的な豊かさ」を最大限上げる方法
夫婦(国民/労働)の役割:
お互いの能力の中で一番効率の良い経済活動を行い、より多くのお金を稼いで全て税金として納めること。
夫婦(国民/福祉)の役割:
税金を最小限で使いながらより効率の良い形で生活基盤を整え充実させること。家事はお金稼ぎとはならないため、夫婦共に福祉として行うのがこの場合効率が良い。福祉を行う時間より、経済活動の効率が良い場合、税金から福祉を補うことも可能。
例.)家事代行サービスなど。
政府の役割:夫婦の生活の中で残った税金を全て使い、家族の目的(豊かさを高めること)に沿った政策を行う。
結果、国の「物質的な豊かさ」は高まる。
各々が労働・福祉を行うことにより、家族の「物質的な豊かさ」を最大限高めるというのがこの仕組みだ。
両者ともサラリーマンであり公務員でもあるとも言える。この仕組みの特徴は、お互いがSpecialistではなく、Generalistという点である。
この仕組みも、お互いが家族の「物質的な豊かさ」に基づいた、社会・共産主義的であるといえる。正当な夫婦関係であればパワーバランスが均等であり、税金の使い道は両者合意の決定で行われ、家族の「物質的な豊かさ」が夫婦個人の利益ともなり肯定されていくだろう。そのため、「個人の自由」を求める必要がなくなる。
どちらの仕組みも定義上、家族の「物質的な豊かさ」を最大化することが可能であり、社会・共産主義的であるといえる。
ここでの「個人の自由」を求める必要がないとはどういうことか。
夫も妻も家族が豊かになるための行動が優先されるため、個人的な利益にお金と時間を使うことは脱税や横領のような不正行為となりえる。
夫婦のリソース(お金・時間・体力)は有限であり、家族の豊かさを最大限上げていくことが目的のため、「個人の自由」な選択肢が可能となるリソースは否定される。政策の決定権が個人にわたることはない。
家族の豊かさを最大限高めることに特化した場合、①も②も「個人の自由」は家族の「物質的な豊かさ」の前では否定されるのだ。リソースの使用方法が既に決定されており、その選択肢以外に使われないリソースは否定されるというものだ。
つまり、「物質的な豊かさ」に基づいた社会・共産主義的であるといえるだろう。強い言い方をするなら「物質的な豊かさ」に支配された独裁的な社会・共産主義である。
独裁的な社会・共産主義は、非常に推進力が高く効率よく推し進めることができるため、目的に最短時間、最小リソースで達成することが可能だ。
「物質的な豊さ」だけを強く望む夫婦であれば、税金の使い道は両者合意の上で行われ、家族の豊かさが個人の利益ともなり肯定されていくだろう。ある意味では、「個人の自由」があったとしても、そこから生まれる選択肢は寸分の違いなく同じなものとなるため、理想の世界であると言える。
「物質的な豊かさ」を求めるのであれば、「個人の自由」を求めることは非効率であると捉えることができる。
しかし、終わりなく「物質的な豊かさ」を高める家族は、リソースの使用方法がすでに決定されており、自分だけの趣味にお金が使われることはない。そんな時間も与えられていない。
少々極端な例となるが、夫が妻への「愛してるよ」「いつもありがとう」と伝える時間すらも否定される。「そんなこと言う時間があるなら、さっさと稼いでこいよ」というのが、「物質的な豊かさ」に支配された独裁的な社会・共産主義である。
これを望む家族が存在するのであれば、「個人の自由」は必要ないと言えるが、そのような家族は存在しないように思う。
それは利害関係がたまたま一致した個人だ。
家族に属した状況下での「個人の自由」の獲得方法
では、この状況下での「個人の自由」の獲得方法はどのような例があるのか?
両者合意形成の有無により以下の4つに分けられる。
前提条件として、「個人の自由」の獲得は「物質的な豊かさ」を諦めることが条件とされる。
①の仕組み上での「個人の自由」の獲得方法
①‐ⅰ.両者不合意のままに、支配行為から一方が「政策の決定権」と「個人の自由」を獲得し、一方が抑圧される。
お互いがSpecialistであるため、相互理解が不足する傾向にある。相互理解不足は信頼関係の悪化となり、家族から独立をしない限りは、半ば強引にリソース管理を支配し、「個人の自由」を獲得する。
①-ⅱ.両者合意の元に、一方が「政策の決定権」と多くの「個人の自由」を獲得し、一方が与えられた「個人の自由」を獲得する。
両者の話し合いで実現可能。「個人の自由」は平等ではなく、政策を取り決める一方の「個人の自由」は高くなる傾向にある。
①‐ⅲ.両者不合意のままに、不正行為から一方または両者が「個人の自由」を獲得する。
財源が一つになるため徹底した管理体制が必要となる。お互いがなくてはならない存在であるため共依存的であり、比較的不正行為は行われにくい。性質上、不正行為は実行しづらいが、不正行為により「個人の自由」を獲得する。
①‐ⅳ.両者合意の元に「物質的な豊かさ」を諦め、両者が「個人の自由」を獲得する。
両者の話し合いで実現可能。
②の仕組み上での「個人の自由」の獲得方法
②‐ⅰ.両者不合意のままに、支配行為から一方が「政策の決定権」と「個人の自由」を獲得し、一方が抑圧される。
お互いがGeneralistであるため、相互理解が深い。パワーバランスは崩れにくい。支配的傾向は抑えられるが、一方が支配に乗り出した場合、「個人の自由」を獲得する。
②-ⅱ.両者合意の元に、一方が「政策の決定権」と多くの「個人の自由」を獲得し、一方が与えられた「個人の自由」を獲得する。
両者の話し合いで実現可能。「個人の自由」は平等ではなく、政策を取り決める一方の「個人の自由」は高くなる傾向にある。
②‐ⅲ.両者不合意のままに、不正行為から一方または両者が「個人の自由」を獲得する。
財源を両者が共に持っている。稼いだお金が一時的にお互いの管理となる場面がある。定額は税収になるとしても、その一部から比較的容易に不正を行うことが可能である。不正行為によって「個人の自由」を獲得する。
②‐ⅳ.両者合意の元に「物質的な豊かさ」を諦め、両者が「個人の自由」を獲得する。
両者の話し合いで実現可能。
上記のように、①も②の仕組みでも「個人の自由」を獲得することは可能である。
両者の合意形成が可能であれば「個人の自由」は獲得できる。
合意形成ができない場合でも、「個人の自由」は支配・不正行為によるもので獲得可能であり、仕組みの特性上、①上ではⅰが、②上ではⅲが、比較的に実行可能傾向にある。
「個人の自由」
「個人の自由」とはなにか?
ここまで、家族豊かさを求める際の家族の仕組みについて検討してきた。
では「個人の自由」とは、一体何なのかをここでは検討していく。
まず「個人の自由」とはなにかを定義する。
「個人の自由」とは、様々な選択肢が選択可能であることと癒着する。
様々な選択肢を持っており、あなたがその選択が可能な場合、「個人の自由」はあると言える。その選択が、莫大なリソースが必要であり、現在は選択不可能と思われる選択かもしれないが、実行可能かどうかは「個人の自由」とは結び付きされない。莫大なリソースが獲得できれば、いづれは実現可能であるからだ。
「個人の自由」から生まれた選択肢は、性質上どの視点から捉えるかによって利害が反転し不明瞭となる。
西洋思想的な「二元論」的な見方ではなく、ここでは、儒教の「陰陽論」や、禅の「不二性」、老荘思想の「大局的視点」を採用する。西洋哲学でいうなら「純粋経験」である。
選択肢がそこに存在するというだけで、この選択肢は正しい、この選択肢が正しくないという正否は存在しない。正否・善悪にて選択肢を決定された場合、それはもうすでに自由ではなくなる。
選択肢がそこに存在するということに意味がある。
あなたの選択肢によって結果が存在する。結果は善悪ではない。善悪ではないが、その結果をどの視点から捉えるかにより利害は存在する。
両者が利になることもあれば、両者が害になることもある。
ここまで面倒なまでに「個人の自由」を、ただの「自由」としなかったのは、視点が曖昧となることを避けるためである。あくまで、あなた「個人の自由」を視点に置く。
上記のように、家族の豊かさという視点から見ると「個人の自由」を求めることは不都合なように思われる。
はたしてそうなのだろうか?
家族の豊かさにとって「個人の自由」は否定されることなのだろうか?
家族の豊かさのために「個人の自由」を獲得する必要はあるのか?
「個人の自由」から生まれた選択肢を家族の豊かさという視点から捉える
家族の豊かさにとって「個人の自由」は否定されることなのか?
一心同体の夫婦関係であれば、政策は夫婦間で取り決められ、自分の望む選択肢が家族の選択肢と寸分たがわず一致しているため、「個人の自由」は獲得しているともいえるし、必要ないとも言える。そのような夫婦は、夫婦の成長段階により存在するかもしれないが永続的には存在しない。
では、家族の豊かさにとって「個人の自由」は否定されることなのか。
家族の豊かさの要素である、「物質的な豊かさ」と「心の豊かさ」という視点を用いる。
「個人の自由」から選択された結果を、家族の「物質的な豊かさ」からの視点と「心の豊かさ」からの視点から捉えたときの利害関係を並べる。
「個人の自由」からの選択肢は「自分のための選択」「相手のための選択」「家族のための選択」と3パターンに分けて考える。
※ここで記すのはあくまで傾向であり例外は存在する。
ここで面白いのは、「相手のための選択」は、「物質的な豊かさ」か「心の豊かさ」か、どちらを高めることを目的にするかによって性質が異なる点である。
「物質的な豊かさ」は、自分か相手のみのためにリソースを割いた結果、家族にとっては不利益としかならない。
しかし、「心の豊かさ」は自分のためにリソースを割いた結果は、家族にとっては不利益としかならないが、相手のためにリソースを割いた結果、家族にとっての利益になることもあれば不利益になることもある。また、条件付きで、相手の利益が伝染し、自分の利益となることもあるという性質を持つ。
先に、家族の豊かさを最大限上げていくことが目的とされるため、「個人の自由」な選択は否定されると述べた。
正確には、家族の豊かさを最大限上げていくことが目的とされるため、家族の豊かさにそぐわない「自分だけの利益」となるような「自分のための選択」のみがここでは否定される。
逆に「家族の利益」ともなるような「相手のための選択」と「家族のための選択」は肯定される。「心の豊かさ」と「個人の自由」は密接な関係にあると言える。
なぜ、家族の豊かさにとって「個人の自由」は必要であるか?
それは、「心の豊かさ」を高めるために必要であるからだと言える。
①も②も厳密な管理下で、「物質的な豊かさ」を高めるだけであったら効率が良い。
ただ、家族の豊かさとは「物質的な豊かさ」と「心の豊かさ」の両方が高い状態を指す。
「物質的な豊かさ」を高めるだけであったら、「個人の自由」は否定される。お互いが同じ「物質的な豊かさ」を目指している条件下でなければ、「個人の自由」の否定は、抑圧や制限となり「心の豊かさ」を減らす。
その抑圧や制限の反動から「個人の自由」を求める。
反動にて獲得された「個人の自由」から生まれる選択肢は、「相手のための選択」「家族のための選択」ではなく、「自分のための選択」となる傾向が多いだろう。
「自分のための選択」は、相手と家族にとって不利益である。家族の「物質的な豊かさ」も「心の豊かさ」も高めることはできない。
家族の豊かさの最大化には「個人の自由」の獲得が必要である。
そしてお互いが、家族の「心の豊かさ」を高めるような選択肢、「相手のための選択」「家族のための選択」を選ぶことが家族の豊かさへつながる。
「心の豊かさ」が高められる「個人の自由」からの選択肢は、「相手のための選択」と「家族のための選択」だ。
「家族のための選択」は自分の利益にもなり行動を起こすことは容易い。
しかし、「相手のための選択」は、自分の不利益から始まり、かつ条件次第で相手も家族も利益にも不利益にもなる。ここまで難しい選択はない。
ここでの条件とは、「愛の有無」である。
「愛」とは
急に「愛」とかどうしたんだ、大丈夫か?と思われるかもしれないが、いたって大真面目である。
では、ここでの愛とは何か?
レオナルドダヴィンチは知ることで愛は深まるといい、ミケランジェロは愛することから深く知ると言ったが、ここでの愛を西田哲学の「愛即知」を参考にし考える。
愛のある「相手のため選択」は相手を最も深く知らなくてはいけない。深く知ったうえで、自分の不利益から始めなければならない。
愛の有無にて「個人の自由」から生まれた選択肢を、「心の豊かさ」から捉える
「個人の自由」から生まれた選択肢を、「相手のための選択」に使用する場合、愛の有無を踏まえて「心の豊かさ」から捉える。
長ったらしくてすみません。
愛の有る「相手のための選択」とは、相手を深く知った上でのプレゼントや感謝の言葉、家族に対して無償で奉仕した行動である。相手を深く知っているために相手の利益に直結する。
自分視点に関しても、一時は不利益であるが、相手の利益が自分の利益に転換するというのは、愛の有る相手という条件のみに適応される。相手の利益は自分の「心の豊かさ」も高めることが可能だからである。
一方、愛の無い「相手のための選択」とは、相手を深く知らず、相手から求められていないが勝手に奉仕した行動である。これは、自分の利益にも相手の利益にも家族の利益にもならない。相手を深く知らないと「相手のための選択」が相手の利益にならず、かえって不利益になることもある。ただの押しつけがましい自己満足である。有難迷惑だ。
ここで陥るのは、愛の有る「相手のための選択」は利益しか生まれないため、愛の有る「相手のための選択」を装った「自分のための選択」をする場合が存在する。
そもそもこの選択は、「自分のための選択」であるため、自分視点で見れば、利益。相手視点で見れば、不利益。家族視点で見れば、不利益となる。
自分だけが気持ちがいいだけである。おためごかしだ。自己愛が強く、相手への愛が無く、相手を深く知らない場合に選択される。
この選択は、愛の有る「相手のための選択」を装った「自分のための選択」を選んだことが問題ではない。相手への愛が無いことが問題である。
愛が有れば、深く相手を知れば、愛の有る「相手のための選択」に切り替わる。その場合には、利益にひっくり返る。
愛すること、相手を深く知ることから始めよう。
この条件下で、相手次第、相手の状況によって利害が変化すると思われる方がいるかと思われる。しかし、それは間違いである。
愛の有る「相手のための選択」は、相手の状況を深く知ったうえでの選択となるため、相手の状況によって利害が変化するときは、本当の相手をよく知らないからであると言える。
かなり高度な技術を要するが、愛の有る「相手のための選択」とはそのような性質を持つ。
家族の豊かさを保存する方法
ここまで、家族の豊かさを最大化するために、どの構造がよいか、どのような選択肢を取るのかを、「物質的な豊かさ」「心の豊かさ」という視点から述べてきた。
では、家族の豊かさを高められた場合、そのまま高く保存するにはどのような方法があるのか?
「物質的な豊かさ」「心の豊かさ」の特徴
家族の豊かさが保存される状態
「物質的な豊かさ」が上限に達した時、家族の豊かさを高めるには「心の豊かさ」を高める以外方法はない。
「心の豊かさ」が高く保存された時、「物質的な豊かさ」はそれ以上を求めない。「物質的な豊かさ」は求めず、「心の豊かさ」を高めることにリソースを費やす。
結果、家族の豊かさを高く長期的に保存できる。
家族の豊かさが保存されない状態
「物質的な豊かさ」が本来時間経過にて目減りしづらく、低くなることはない。しかし、急に低くなることがある。それは、相対評価・他者比較した時である。相対評価を始めた時点で、はじめは自分優位となろうとも、最終的に満たされることはない。
この状況は「心の豊かさ」が低いと陥りやすい。
「心の豊かさ」が低く保存されると「物質的な豊かさ」を欲する。
「物質的な豊かさ」の上限設定ができず、「物質的な豊かさ」を高めることのみにリソースを費やす。相対評価を続けた場合「物質的な豊かさ」が高く保存されることはない。
結果、「物質的な豊かさ」が高まることもなく、「心の豊かさ」も低いままである。家族の豊かさが高く保存されることはない。
昔の人は今より少ない物で、満足できていたかはわからないが、生活はできていた。我々が、ここに生きていることがその証明だ。
つまり、生活水準を定めてしまえば、「物質的な豊かさ」には上限設定が可能である。ただ、「物質的な豊かさ」は「心の豊かさ」が高くないと保存することが難しい。
物に困らない生活をしている人でも、「心の豊かさ」が低い人であれば、新しいものを欲したり、生活水準を上げ「物質的な豊かさ」を望む。物質を所有するだけでは「物質的な豊かさ」を満たすことは難しい。「心の豊かさ」が高く保存されたとき「物質的な豊かさ」はそれ以上を求めない。
家族の豊かさを高めるためには「物質的な豊かさ」よりも「心の豊かさ」を高めることが優先される。
「物質的な豊かさ」「心の豊かさ」はあくまで個人の視点でしか測れないものである。相対評価ではなく、絶対評価だ。他の視点から低く見えようが個人の視点で高ければ高くなるのだ。
また、この豊かさというものも、二元論的な「豊」と「貧」、「富」は絶対的に良いもので、「貧」は絶対的に良くないものであると捉えがちではあるが、これも結果だけが存在するのだ。この結果をどの視点で眺めるかで決まる。「富」にも「貧」にもなりえる。
つまり、絶対評価のため自分の意思次第で、「富」になる。
家族の豊かさにおける「個人の自由」の獲得方法と使い道
「個人の自由」の獲得方法は、両者合意のもとか、両者不合意のまま不正行為により獲得可能だ。ⅰ~ⅳにて記載した例である。
アリストテレスの政治学を補助線にする。
「個人の自由」は両者の合意・不合意の獲得方法は関係なく、
「家族のための選択」に使われた場合、君主制・共和制である。
「自分のための選択」に使われた場合、独裁制・民主制である。
「個人の自由」の獲得方法は、両者の合意によるものか不合意によるものかで分かれる。
両者不合意のままの「個人の自由」を得るには、自分の意志にて支配・不正行為から獲得するほか方法はない。
そのため、ここで獲得された「個人の自由」は「相手のための選択」「家族のための選択」よりも「自分のための選択」に使われる傾向にあるだろう。独裁制・民主制になる傾向にある。
現に、両者不合意のまま獲得された「個人の自由」により、①‐ⅰとなっている国は、自己利益のために他を恣意的に支配する独裁国家であり、②‐ⅲは、自由の自己解釈により自己(エゴ)が肥大し不正行為が横行している民主主義国家であると言えるだろう。
「個人の自由」の獲得は、両者合意のもとに得られるのが望ましい。しかし、両者不合意でも、「相手のための選択」が可能であるならば、豊かさを高めることは可能である。
家族の豊かさにおける「個人の自由」は両者の合意のもとで獲得され、
家族の豊かさを最大化する「個人の自由」の使い道は、
「物質的な豊かさ」を高めるためには、「家族のための選択」に使う。
「心の豊かさ」を高めるためには、愛の有る「相手のための選択」と「家族のための選択」に使う。
ここで、優先されるのは「心の豊かさ」である。「物質的な豊かさ」を求め続ける終わりない旅は一生をかけても満たされることはないが、「心の豊かさ」を求める終わりない旅は、一瞬一瞬が満ち足りている。
登山で例えるなら、頂上に着くことだけに意味があり満たされる場合と、山の中を一歩一歩歩くことに意味があり、一瞬一瞬が満ち足りている場合の違いである。
極端な話、あなたは何も持っていないと感じるかもしれないが、「心の豊かさ」次第であなたは全てを持っているのだ。
「心の豊かさ」に最も必要なものは、所有可能な物ではない。相手への愛である。
「心の豊かさ」を高めるためには、「家族のための選択」と愛の有る「相手のための選択」の二つがある。安定した「心の豊かさ」を高めるには、「家族のための選択」が有効である。
愛の有る「相手のための選択」の結果は予測不可能な変動値である。だが、相手を深く知れば知るほど、この変動値は二次関数的な高まりを見せる。
あなたが獲得した「個人の自由」を、愛の有る「相手のための選択」に使用することが、最も家族の豊かさを最大化する選択である。
まとめ
家族って自由民主主義?社会・共産主義?という疑問から始まり、だらだらと考えてきた。
家族の豊かさを高めるという目的を置くと、当たり前なのだが、○○主義が先ではない。あくまで、選択が先である。様々な選択を積み重ねた結果、それっぽいシステムが出来上がり、○○主義という名前が付けられる。また、様々な選択を積み重ねた結果、こうなるであろうという予想の元、○○主義とつけられる。
家族が政治形態の、独裁主義・民主主義、経済の仕組みの、資本主義・社会共産主義。政治思想の、自由主義、その他のどの主義に属そうとも、豊かさの最大化は選択肢によって可能であると言える。
逆に、豊かさの最大化に沿わない選択肢を取った場合、どの主義であろうと、豊かさを高めることはできない。
○○主義はそれぞれが異なった特性を持ち、曲解された解釈で誤った選択肢を取った場合、豊かさの最大化は難しい。
ただ、○○主義の特性に合った選択をすることは、豊かさの最大化が可能。よって、違う主義同士で異なった選択肢が選ばれることは、当然であり、違う主義の視点から、その選択肢を否定することは何も生むことはない。
国の豊かさを求める場合、愛の有る「相手のための選択」は対象者が国民となるため、一人ひとり趣味嗜好・考え方も違い選択肢が無限に存在し、最大値を取れる選択肢しか難しいだろう。
しかし、家族の豊かさであれば、愛の有る「相手のための選択」は実行可能なように思う。
今一度、原点に立ち返り、まずは、深く知ることから、愛することから始めよう。
2024/10/28 追記
実践の最中、愛の有る「相手のための選択」には、”能動的”か”受動的”かで豊かさが変容することがわかった。
以下、書きましたのでよかったらぜひ。
あとがき
家族の豊かさには、相手への愛が大事なんて、ありきたりで、当たり前で、近道もなく、刺激的でない結論だ。
だが、だからこそ、これは本質であるといえるだろう。
ここまで回りくどい形で愛の必要性を説くなど、無粋なことをしてしまった。
昔の人はもっと感覚的に理解できていたように思うが、悲しいかな、私も含め、目に見えないものが本当に見えなくなってきてしまった。
その一端は、自己と自由の解釈違いであると私は考える。
東洋思想を指示する人であれば、梵我一如、自己は存在せず宇宙と一体になることが目的である。主客が存在しないため「個人の自由」が「相手のための選択」「家族のための選択」となることは、比較的にすぐに馴染むだろう。
ただ、西洋思想を指示する人は明確に主客が存在する。自由の自己解釈により歪んだ形で自己(エゴ)を肥大化させてしまうと、強烈に主客が対立し、「個人の自由」が「相手のための選択」「家族のための選択」となることは何かに強要されたように感じ許容することができない。それぞれの自由が摩擦を生み耐えきれなくなる。
「個人の自由」は「自分のための選択」に使われ、強い個人同士により競争化が進んでいく。弱い個人は、エーリッヒフロムの「自由からの逃走」にもあるように、「個人の自由」から目を背け、権威主義・破壊衝動・機械的画一化に進む。
東洋思想が素晴らしいと言いたいのではない。
西洋思想の二元論、専門化は、これまでありとあらゆる事柄に名前をつけ、自然法則を明らかにしてきた。この技術発展による恩恵は、現代に生きているすべての人が受けてきたであろう。しかし、行き過ぎた西洋思想の解釈、真理に近づくために、簡単な言葉で表しすぎたことにより発生した病が、個人主義の行きすぎた資本主義という形で我々の体を蝕んでいる。
何が良くて何が悪いかと言いたいのではない。
ただ結果だけが存在する。あなたの選択肢から起こる結果の全てはわからないまでも、どの傾向にあるのかということを知っておかなければならない。選択には責任が伴う。
深く知ることでしか、選択肢の結果を予測することはできない。