Ryuichi Sakamoto「Opus」にて咽び泣く
坂本龍一の長編コンサート映画「Opus」を見た。
涙が止まらなかった。音が重視されている映画なのにもかかわらず、周りの観客には非常に申し訳なかったのだが、途中から嗚咽する勢いで泣いてしまった。
この感覚を忘れないために、残しておく。
はじめは、音質が非常に良く、白黒の映像であったため、目をつぶってなり薄目を開けるなりして、この1時間43分間、音の波に浸ろうと考えていた。
非常に心地よかった。
坂本龍一自身が、何かの本で書いていたが「いいコンサートは眠くなる。眠れるコンサートこそがいい演奏の証拠だ」みたいなことを書いてあったのを思い出して、それも一興だなとも勝手ながら思っていた。
時折、映る顔や仕草なども見て、いい表情するなぁ、体が音と一体化していると感じた。
そんな中演奏も続いていき、中盤を迎えたあたり、ちょうど「Aqua」の演奏が始まった。「Aqua」は1998年、娘のために作曲した曲だそう。
なにかわからないが、それまでと明らかに違った。
過去を思い出し、一音一音を愛でるような記憶を確かめるような、音に確かな輪郭を感じた。彼の記憶の映像ではなく、一瞬の色・音・匂い・触感などを切り取って追体験しているような感覚を覚えた。
その次の「Tong Poo」も、音数のある曲をピアノ1台で演奏する暴挙なのだが、私の脳内のYMOも呼び起こされ、脳内セッションを始めた。あそこまでカラフルな音色をピアノ1台だけでも表現可能なんだなと驚いた。打楽器のような楽しさだった。
「Aqua」からの5曲は、特に記憶を確かめる。喜怒哀楽では表現しきれない輪郭を彩る感覚が強く感じられた。
全編通して、私は、彼が死ぬ前に弾く最後の曲たちであって、もう二度と彼が弾くことはない。このコンサートは彼が彼の生み出した曲たちを供養するような、ある意味での曲たちの葬式のような感覚で見ていた。
しかし、それは間違いだった。
確かに、彼が彼の曲を弾くというのは最期だろう。ただ、この世界から先立つのは曲ではない。彼のほうだ。
この世界に産み落とされた曲たちは、彼が亡き今でも我々は聴くことができる。しかし、この世界で我々は彼とは二度と会うことはできない。
死後の世界はわからない。
彼が彼の曲たちを聴くことはあるのだろうか、もう一度曲と一体化することはあるのだろうか、そんなことを考える。
残された曲・芸術たちは、この情報の荒波の中でも今後も残り続けるだろう。我々もあと数年したら等しく先立つ、彼の残した曲をこの世界に置いて。
この世界に残されていった芸術たちに触れたとき、我々の子孫たちはどう感じるのだろう。
最期の2曲、「Happy End」「Merry Christmas Mr. Lawrence」は嗚咽して覚えていない。
ただただ、そんな別れの切なさと確かな温かさを感じた。
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