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スーパーマン(現実の人物)は、僥倖にも厄災にも成り得る

スーパーマンとは、普通の人よりかけ離れて優れた能力をもつ人のことを指す。言わば、ただの力を持った個人である。

スーパーマンについて考える。
普通の人という定義は一般には存在しない。個人の今まで会ってきた人を想像した頭の中だけにある。
優れた能力というのも存在しない。他者比較から生まれる物差しである。
捉え方次第で自分が優れた能力を持つ者であるという認識は、誰にでも可能だ。
つまり、誰にでもスーパーマンに成り得る。

また、逆説的にこの世界でスーパーマンを一人でも認めてしまった場合、全人類の一人ひとりが余すことなくスーパーマンであると認めることとなる。
しかし、現実はそうはならない。
自分自身の物差しを、スーパーマンの都合のいい物差しで計り、他者からも同じ物差しで相対評価されるからだ。ex.)資産、収入、ルックス、身長、頭脳、、、挙げればきりがない。
この物差しの押し付けあいに関しては、またどこかでだらだらと考えていく。


スーパーマンは、我々にとっては能力を持った個人というだけで、いい人でもなければ悪い人でもない。

その中で、スーパーマンの一般的ともされる行動は、他者を助けることだ。
「人間は社会的動物」であるとするため、この行動は実に本質であり、誰もが自分のためにも行うべき行動であるように思う。
その行動の結果、自身がヒーローたりえる。
受け手の人類は思いがけない幸せ、僥倖を受けることになる。
これが、世間一般にいうヒーローとされるスーパーマンだ。

しかし、能力を持った個人が、自分自身のためのみに、その能力を余すことなく使用した場合、スーパーマンはヒーローとならない。
その行動は人類にとって思いがけない不幸、厄災となる。
本来人類へと使われるはずだったリソースは、スーパーマンが独占することとなる。これは、もはや個人のエゴでは済まされない。

世界は押し付けられた物差しの中でスーパーマンになり、誰がNo.1のスーパーマンか少しでも多くの人を見下そうとする競争が激化してきている。
というのも、万人の自己は自己超越を目指すとした。
超越した自己は、「人間は社会的動物」である前提として働き、集団主義へと転化するだろう。超越という日本語よりは、自己は世界と溶解するという意味合いのほうが近しい。自己は世界とつながり、自己と世界の境界はなくなる。
自己超越を果たした個人が、あなたのためわたしのために、僥倖を与え続けることで世界は好循環していくはずであった。

ただ、そのような前提は、薄れ歪んでしまった。
自己責任論を曲解し、あなたの自己超越へと目指す自己は、あなた自身があなたを特別視する自己へと働いた。
自身の物差しを他人へ展開し、押し付けあう。
自己超越とは全く異なる、他者比較にて超越を目指すことを目的とする。
他者超越に至った要因は、「自分の行動が引き起こしたことによって生まれる結果はすべて自分の責任」と考え、それらを肯定的に捉えることで、「自分の行動によって生じた他者超越(成功)はすべて自分の能力のおかげでありその結果」となる。
ここでの他者超越は自己超越の本来の意味とはかけ離れていき、「自分は他者より成功している、能力を持っている」というような意味合いを持つだろう。

あなたが勝ち取ってきたと思われる他者超越(成功)とされているものは、他者ありきであり、環境要因が必須である。他者なしにあなたの成功はありえない。また、その成功というのもあなたの押しつけがましい物差しの中での話だ。
それを全てあなたの能力により手柄と捉えると、他を顧みない個体へと成る。

他を顧みない個体からなされる行動は、「人間は社会的動物」という視点からすると、個人に必須の生態活動であろうと、悪意を持った行動であろうとなかろうと厄災だ。


現在、自称スーパーマンたちによって様々な厄災が降り注いでいる。
少しでも自分のことを特別だと感じたことがある人間、他人を少しでも馬鹿だと思ったことのある人間は、等しく他者より優れた能力を持つと考えているため、等しくスーパーマンであるといえる。

あなたはスーパーマンである。
あなたがスーパーマンである以上、あなたの行動・選択は、人類にとって僥倖にも厄災にもなりえる。
あなたが今後もスーパーマンであり続ける以上、あなたには義務が存在する。
あなたの行動・選択は、「社会的動物」である人類にとって僥倖になりえるだろうか?

Noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)。貴方が今後も救世主たらんことを

東のエデン

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