![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/155854611/rectangle_large_type_2_b277a4e02703985abdd9fccc7b2dc3ee.png?width=1200)
木村拓哉がキムタクを演じることは不幸なのか?
「キムタクって一生キムタクだから大変だよね、」
「キムタクって素に戻る時ってあるのかな?」
「木村拓哉がキムタクを演じることは不幸なのかな?」
先日、友人とこんな話になった。
かなりの余計なお世話だ。
そんなこと言われなくても、キムタクは幸せにやっているだろう。
ただ、疑問にも思ったので、だらだら考えていく。
肉体と精神、現実と虚構(理想)の関係に近いように思う。
現実を木村拓哉とし虚構をキムタクと置く。
木村拓哉はキムタク(理想)を演じることで、日本の誰もが認識するようなな人間となった。
しかし、田中太郎(仮名)がキムタクを演じたとて、日本の誰もが認識するような人間とはならないだろう。
木村拓哉という依代があるからキムタク(理想)が生まれるわけだ。
木村拓哉はこの世に生を生まれ出た瞬間、木村拓哉として肉体を持った。現実の存在となった。
しかし、精神としてのキムタクは同時には生まれていない。
どのようにして精神としてのキムタク(理想)は生まれるのか?
キムタクは、肉体の木村拓哉が理想を表現し、正否関係なくそれを受け取った個人個人が認識した虚構により生まれる。
木村拓哉は自分の理想を表現した結果、世間のニーズとマッチし、木村拓哉という肉体にキムタクという精神を獲得したといえる。
では、冒頭の疑問の「木村拓哉がキムタクを演じることは不幸なのか?」について考える。
幸不幸の定義は、煩わしいので簡潔に自死を選ぶ理由が生まれるか否かとする。対外的な理由(家族・交友関係)は除く。
現実に木村拓哉という肉体が存在した。
木村拓哉がそうなりたいと望んだから、キムタク(木村拓哉の理想)が生まれた。
世間もキムタクを望んだから、キムタク(世間の理想)が生まれた。
木村拓哉の肉体を依代にキムタク(虚構)が生まれた。
ここで幸不幸の分岐点は、木村拓哉のキムタク(理想)と世間のキムタク(理想)に相違があるかないかである。
それぞれのキムタク(理想)が完全にとはいかなくとも木村拓哉が違和感を持つことがなく一致した時、自死を選ばなくて済む。
しかし、木村拓哉がなりたい理想の表現を行い、世間が彼の理想とは違う受け取り方をしたとき、彼はキムタク(木村拓哉の理想)にならず、キムタク(世間の理想)にしかなれない。
自分の中のキムタク(木村拓哉の理想)は歪んでいき、周囲からはキムタク(世間の理想)を押し付けられる。
理解されない、自分に噓をつかなければいけない、自分の理想に近づかない感覚から、現実と虚構が入り混じり、自死を選ぶに相当する理由となる。
この場合は、「木村拓哉がキムタク(自分の理想とは歪んだ世間の理想)を演じることは不幸だといえる。」
虚構には慣性が働く。
虚構を認識する絶対数が増えれば増えるほど、虚構は現実を覆い入り混じる。
キムタクと言えば、日本人はある程度どんな人間なのか、会ったことも話したこともないのに、認識できるというのがその証拠だ。
木村拓哉が世間からは望まれていないような誇大な理想を打ち付けることと世間が木村拓哉とは違う認識してしまうこと。
木村拓哉がキムタク(木村拓哉の理想)を望もうにもキムタク(世間の理想)が押し寄せるため、木村拓哉(現実)が理想に近づくことが難しくなる。
現実と理想のギャップが不幸の要因であるといえる。
これは、ギャップが生まれる理由があったというだけであり、どちらが悪いというのは存在しない。
ただそうなっただけだ。ただそれだけである。
ギャップは必ず生まれるものであるだろう。
世の中で成功しているしていない関係なしに、
自分の中の現実を受け入れることでしかギャップを埋める方法はなく、自死を避ける方法はないのではないだろうか?
未麻:「私は本物だよ」