直観の行動・個人という単位・時間の認識・認知基幹
直観の行動
行動が結果を生む。
結果には責任が伴う。結果には、視点により必ず二面性が存在する。
全ての責任が予想できないまでも、良い結果のみを見るのではなく、視点を変え二面性を予想し、その視点からも責任をとる覚悟が必要である。
その時、責任を取りたくないがために受動的となるのは、結果のわかりきっているサイコロを降るかの如く、個人にとっては面白味のないものであり、他人にとっては当然のこととなる。
当然のことは不変と誤解され、サイコロの出目が理想と違うものであった時、他人と個人の間で不和を生む。
今よりも良い世界へ、豊かにへと望むとき、能動的にすべての結果が予想できないまでも、最大化される行動が推奨される。結果が望ましくないものであったとしても責任を取る覚悟が必要である。
最大がとれる選択には、直観を要する。
直観は、対象を知ること愛することから育まれる。
個人という単位
私を個人として認識することは、俯瞰的な視点を要する。
その俯瞰的視点から、現実の個人としてとらえる。
この等身大を認識しないと、様々な場面で齟齬を生む。
自己の肥大化や矮小化となるのは、他者比較という相対的な物差しによるものであり、等身大を認識するためには不向きである。
等身大というものは、”ただ今ここにある”といったような実在。
その実在には、無論、感情はなく因果関係のみのものである。物差しは必要ない。
”ただ、今ここにある”というのは、その繰り返されてきた結果の上にある。
ただそれだけのものであるという認識。
個人という単位は存在せず、過去の積み重ねられた結果、”ただここにある”。
時間の認識
時間の経過は、過去・現在・未来と表される。
過去は、オンタイムの現在を積み重ね、自然に表出化した結果である。
現在は、”今ここ”である。
未来は、個人の脳内だけで現在の時間を進めた認識である。
ここで現実というものも存在する。
現実は、現在をとらえる頭の中だけでの認識である。
“ただここにある存在”は過去を学び、未来を空想し、現実を把握したうえで、現在を通過することで、行動により結果を自然に表出化させることを積み重ねている。
頭の中(現実と未来)は時間の速度が現在とは異なる。
未来は現実から理想や虚構へ時間を加速させることができる。
理想は起こりうる現実であり、現実に近い。
虚構は理想から時間を進めたものであり、理想よりも起こりうる確率の低い現実である。
虚構ではなく、常に現実と理想の両方を同時に意識する。
理想だけを意識すると、頭の中と現在との時間速度が異なるため、頭の中での理想は虚構へと加速する。
現実も同時に意識することで、頭の中を現在と同じ速度へと落とすことが求められる。
仮に、頭の中で現実を意識せず時間を進めてしまった場合、虚構へと向かう。
虚構に身を浸したとき、自然とはかけ離れた認識であるという違和感(メタ認知)から現実を求めるようになる。
否が応でも、個人は現実へと向かう。
しかし、その求めた現実が等身大の自分から生まれた認識ではなく、他者から供給された現実化された虚構(現実に似せた虚構)であった時、より深く耽溺するだろう。
虚構は性質上、快のみであり不快が存在しない。
現実には快不快が存在する。
虚構に浸ることは、現実よりも心地よい。ましてや、現実化された虚構であったとき、個人が今渇望しているものと似ておりあたかも正解のように思われ、離れがたい。より深く溺れていくだろう。
しかし、溺れた先は、あくまで虚構であるが故、現実で不和を起こす。
より逃避的に、虚構へ溺れていく。
認知基幹
開かれた心、静かな頭、溶け込んだ体
心は、現実をとらえるため、多くの選択肢の中から、行動を選択するために、開かれる。
頭は、理想をとらえるため、虚構へのブレーキを働かせるために、速度を落とし静かとなる。
体は、自然をとらえるため、誤った法則の違和感を感じるために、溶け込ませる。
過去は、心・頭・体の認知基幹を使い、現在が積み重ねられ自然に表出化した結果を、個人で知覚する。
現在は、知覚した結果を眺め、能動的に豊かさが最大化される行動を実行する。
未来は、その行動の結果に対し、責任を取るという覚悟により開かれる。
心・頭・体、すべてを使い、対象を深く知る。そこには愛を要する。