自己確立やアイデンティティの曲解
「カテゴライズ、ジャンル、ハッシュタグ、推し活、○○主義、LGBT、○○派、○○になりたい。」
これらが、蔓延している。
これらは全て、自分を形作るうえでの必要な要素・思想・アイデンティティを持ち、どんな他者から見られても、わかりやすい何者かにならなければいけない。そんな、焦燥感・自己不信の中から逃れるために我々がすがった一本の藁であったが、その実、その場しのぎの劣悪な中毒性のある経済社会からの処方薬であった。
鼻水が服の袖にベッタリと付いていたような時に、1/2成人式という行事が開かれ、「将来の夢」を高らかに宣言させられた。
将来の予測できないのに、「将来の夢を持て」なんて言う、無責任な言葉に縛り上げられた脳みそ。
その約10年後、インスタグラムを開けば、そんな焦燥感からもあるであろう、何者にもなれない不安からか、「パン屋になりたい」と宣言した女の子は、マルチをやりお金を稼ぎ、海外旅行をし、プールサイドやゴルフ場で写真を撮る。
「サッカー選手!」と宣言した男の子は、マルチをやりお金を稼ぎ、海外旅行をし、プールサイドやゴルフ場で写真を撮る。
(もちろん、それが心から好きな人もいるとは思う。)
そんな同級生たちの投稿。
どこかで見たことあるような誰かの真似の誰かの写真のような構図、創造力の乏しい写真と本文を見る。
あれ?こいつってこんな感じだったっけ??
彼、彼女らを否定はしない。
彼、彼女らの将来成りたい何者かを、解像度高く解釈し、表現した結果がそれなのであろう。ただただ、何者かに成り幸せそうになりたかっただけだ。
ただその結果により、彼、彼女らは想像通りの何者かになれたのだろうか?
納得のいく自己確立できたのだろうか?
勝手ながら、そんなことを考える。
キルケゴールの「死に至る病」から引用する。
きっと、彼らはどこかで絶望するのではないだろうか?美的実存をどこまでも求めていった先に彼らはどうなるのか?
我ながらかなりのお節介だし喧しいとは思うが、、、
吸収・咀嚼ではなく消費行動のみの快楽に溺れている。
消費しても消費しきれないほどの娯楽がこの世界に存在するため、消費するだけで人生が終わってしまうのかもしれないが、
自己確立やアイデンティティは、自身をカテゴライズすることではない。
金持ち・貧乏・頭の良し悪し・職業・車の所有・家の所有・国籍・住所・身長・体重・親・年齢・宗教・思想・男・女など、自身をカテゴライズしていけばいくほど、自身の輪郭がぼんやりとは見えた気になるだろう。
しかし、このカテゴライズにより見えてくる自分は具体的なようでいて、抽象度が高いぼやけた輪郭だけである。
そもそもカテゴライズとは、俯瞰から多くの物を特徴別だったりに分けるという行為である。
自己確立には適さない。それどころかむしろカテゴライズに固執し続けると自己を見失う恐れのほうが大きい。
これはトレンドだからこの#を自分に取り入れて何者かになった気になる。
まったくの逆である。
○○が好きだから他者から#○○とつけられるのであって自称するものではない。主観で「私って○○だから」と自称するのは、主観と客観がずれている。
本来そのままでも素敵な○○は、あなたの手垢によって、あなたの承認欲求の餌となる。
○○を身に着けたとて、あなたは何者にも成れない。
無責任な言葉によって汚染されてしまった脳みそ達。
そんな雰囲気であった時代というのも仕方がない。
言ってきた人間が何者かに成れていたのかを問いてもむなしいだけ。
何が、誰が悪いとかは今まで積み上げられてきた結果のため、憂いてもどうしようもない。
私を含め彼・彼女らが絶望してしまった時、死なないことを強く祈る。
考え方・捉え方を変えていかなければ、どこかで絶望し死んでしまいそう。
自分で絶望したら、自己なんてI wanna knowくらいで軽くやっていこう。
他人になんか言われたら I don't knowで無視して、ゆっくり考えていこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?