現実→理想→虚構
現実→理想→夢→虚構→現実→現実…
↳ 現実(虚構)→虚構→ 現実(虚構)→虚構→ …
これらは一方向へ進んでいく。戻ることはない。螺旋していく場合はある。
虚構に身を浸せば浸すほど、現実を求めるようになる。
しかし、その現実が現実化された虚構であった場合、虚構であるが(自然法則にのっとってないが)故、現実化せず失敗する。
個人の恋愛と社会の供給を例に置く。
個人:社会:
現実で、あなたは現在付き合っている人がいなく、理想の彼氏彼女を求めている。理想の彼氏彼女はどのようなものかを考える。
個人:
理想の彼氏彼女像が、身近にいる人ではなく、夢へと進む時、頭の中の彼氏彼女像は不鮮明となるが、高揚感とともに夢の彼氏彼女像を思い描く。
社会:
理想の彼氏彼女像を具現化するため、創作物を用い、表現者が「これが夢の彼氏彼女だよね」と個人に提示する。
個人:
夢の彼氏彼女像は、時間経過や外部情報(創作物の増加)とともに、非現実化した理想となる。虚構となる。
個人:社会:
ドラマや映画などの、多くの創作物を参照し、虚構の彼氏彼女像を形成していく。
個人:社会:
虚構の彼氏彼女像は現実のものではないと、どこか気づいているため、現実を求めるようになる。メタ認知と冷笑。
個人:
身近な人や、現実の人との付き合いを始める。快だけではなく、不快が多く存在する。
社会:
個人を離れさせないように、現実に近づけた虚構を創作物として、個人に提示する。ex.)恋愛リアリティーショー、Youtuber、
違う方向へむかう個人:
虚構は快のみを摂取することが可能である。耽溺できる現実化された虚構を求める。しかし、それはあくまで虚構であるが故、現実で不和を起こす。
虚構に陥った個人は現実を求めるが、社会は資本主義で成り立つ故、個人が効果的に消費行動を行えるように、数多くの現実に似せた近づけた虚構を提示する。
個人が快不快が入り混じる現実を享受するのか、快のみが存在する虚構へ逃避するのか。
この現実か虚構かを区別して考えることができず、快のみを求める場合、耽溺できる虚構を望む。
虚構に慣れメタ認知した時、現実に似せた虚構に耽溺する。
あなたは、快のみに満たされた状態で、不快を浴びせられる現実に目を向けることができるだろうか?