C×C ケージ×山根 -program note- 優とされてきたことの反対側
「こうじゃなくても良い」。ケージは「こうあるべき」から西洋音楽を大きく解放してくれた存在で、接するたびに心が高鳴る。
2022年。既に把握しきれないほどの数の西洋芸術音楽作品が大量に有り、消化しきれず、 たくさんのエネルギーがかけられた同時代作品が構造的にどんどん刹那に過ぎ去っていく感覚がある。音楽において本来多様な価値観が存在する中、音楽活動形態のバランスとして今の西洋音楽内部はその内容に対して歪な状態ではないかと思う。
偏っている部分がほぐれていくことについて考える。基準とされる古典を土台として西洋音楽ではそもそも”優秀”でなければ音にすることが難しい側面がある。一方で作曲家の 意図の介入をできるだけ手放すことを行い、《4 分 33 秒》では何も音を書かずに、奏者にも意図して音を出させなかったケージ。全てを管理する完成された音楽から、できるだけ管理しない音楽へ。そうやって生まれる音楽の可能性を奇異なもの、特別なものとして崇めることなく、体験として丁寧に音を聴き、今夜はコントロールゼロの向こう側、かつてあるべき優とされてきたものの反対側までを見つめていく。
崇高・偉大に相対する概念としての解放、レディメイド、キッチュ、匿名性、かわいい、 不確定性__これらのような題材を軸に今夜のコンサートプログラムはセレクトされた。
また、《ザ・ビートルズ 1962-1970》はビートルズ楽曲の出版楽譜がそのまま切り取られコラージュされている作品で、未出版であり、委嘱者である高橋アキさんに手厚く協力いただき実演に至ることができた。どんな音もあるがままに捉え作曲するケージだが、本作品の文脈や市場構造など、本来音に纏わりついていたはずのものを敢えて切り離さずに聴い てみると__或いはわかりやすいなどの先入観を無くし(今の10代はビートルズを知らな い)あるがままに音の重なりが示している音像を丁寧に聴くと、西洋音楽におけるシミュレーショニズムとポップということが結びついた独自の質感を持ち合わせており、今夜プログラムされた各楽曲に様々な角度から接続している。勿論他の楽曲も同様、互いに様々な角度から。
厳しい社会情勢の中、音楽について今日も活動し耕すことができる現実と、共につくり、 体験を共有してくださる全ての皆様にたくさんの感謝の気持ちを捧げたい。
ジョン・ケージ作品
解説 原塁(音楽学者) ※許諾を得て掲載します
ケージ 《6つのメロディ》
あらかじめ用意された極めて限られた素材(「ギャマット」)を、リズム構造の枠のなかに配置することで構成された作品。この方法は《四季》(1947)や《4部分の弦楽四重奏曲》(1950)といっ た同時期の作品でも用いられた。タイトルが示唆するようにヴァイオリンとピアノが相補的に一つの旋律線を奏でる6つの小品には、作曲家の言葉を借りれば「伴奏」がなく、音楽は機能和声や対位法といった連結・配置のルールから解放されている。
楽曲全体を通して、素材の限定から生まれる確かな統一感がある。とはいえ、不活性な繰り返しの印象は少しもない。ある一つの風景が光や風の変化、四季のうつろいのなかで時に繊細に、 時に大胆にその相貌を変えてゆくように、素材の組み合わせや強弱、持続時間、テンポの変化が統一性のなかに多様なディテールをもたらしている。
ケージ 《ザ・ビートルズ 1962-1970》
ケージがポピュラー音楽や録音物に対して否定的であったことはよく知られている(実のところビートルズのレコードは一枚も持っていなかったらしい)。このことを知る向きには意外に思われるかもしれない本作は、ピアニストの高橋アキが世界14ヵ国47人の作曲家に編曲を委嘱した「ハイパー・ビートルズ」というプロジェクトの一環として作曲された。
曲は後述の「タイム・ブラケット」の手法で書かれた6つのピアノパートからなる。それぞれがビートルズの楽曲からの8つの抜粋によって構成されており、多重録音ないしは同時演奏される。ある時間枠を共有する複数の出来事の「同時多発性」はケージの創作を貫くものの一つであり、それは彼が信奉していたカナダのメディア論者マーシャル・マクルーハン(1911-1980)が言うように電子メディアを通じて顕現した世界の特徴でもある。インターネットをはじめとする通信 技術の発達により、こうした環境にほとんど自覚せぬまま身を置いている現代の耳に、本作はどのように響くだろうか。
ケージ 《セブン》
「ナンバー・ピース」と呼ばれる一連の作品(1987-1992)のなかの一曲で、タイトルは演奏者 の数を表す。《Seven》を含む同シリーズは「タイム・ブラケット」を用いて書かれた。これは、断片的な譜面の左右に演奏の開始時間と終了時間の幅を記したもので、1980年代に入ってから盛んに使用された。たとえば、左に「0’00” ⇔0’45”」、右に「0’30” ⇔1’15”」とあれば、曲の始まりから45秒以内に指定の楽譜の演奏を開始、30秒から1分15秒のあいだで終えて、次のブラケットに移ることになる。
ケージは1960年台後半から詩人ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)への関心を深め、「政府は管理しなければしないほど良い、最良の政府とは全く統治しない政府である」という旨のアナーキーな言葉に強く惹かれていた。音を厳密に管理・統制することのない「タイム・ブラ ケット」を用いた本作にも、こうした関心に通ずる性格が認められよう。7人の奏者が発する音は偶発的に重なり合い、自在な関係の生成を密やかに寿ぐ。
山根明季子作品
解説 山根明季子
山根 《状態 No. 3》
ひとつの状態持続に焦点を当てて構造を廃し、状態そのものを鑑賞・観察することを目的とした作品群の一曲。最初の動機として、一歩コンサートホールを出た時に現代の高度消費社会に溢れる聴覚現象を捉えるために制作を始めた。これまで No. 1「パチンコの実機をプレイする」、No. 2「任意の既成楽曲を騒音とともに演奏する」をそれぞれ舞台上で実践し てきた。今回初演する No. 3 は「任意の既成楽曲を複数同時に演奏する」というひとつの状態のみを提示するテキストピースである。
特定の作品の引用ではなく、どの作品をどれだけ重ねるかは演奏毎に決められるため、重ね方には無限のパターンがある。自律した既成楽曲を代替可能な編集対象として取り込む 作品は多く存在するが、ここでは「ひとつの状態」つまり上部にある構造ではなく何かが「重なっていること」そのものの体感が目的であり、持続の内側に分け入るという点において作曲家ラ・モンテ・ヤング作品との共通点、その影響を有する。都市やメディアをはじめ現代の日常空間で頻繁に遭遇する、複数の自律したBGMなど人が作った音楽(特にピッチ感、 リズム感において中心への求心力をくっきり有したもの)同士が無作為に重なる環境や刺激、消費形態について。ホールという集中可能な空間にひとつの状態を持ち込み、直視する。
山根 《キッチュマンダラかわいい》
三和音や音階、調性的メロディなど、資本主義社会において氾濫する西洋音楽由来の音素材を、本来の機能や構造からいったん剥がし、表面的・匿名的に扱い並列して構成した作品。 アンサンブルは一点で支配的に合わせることをせず、五人がそれぞれのグルーヴ感でお互い自律して同時進行し、不確定にずれたまま重なり絡み合っていく。大量消費や物質世界を モチーフとした小曼荼羅をイメージしており、部分が全体であり、全体が部分であるように一方向ではない円環構造を持つ。
指揮者セシリア・カスタニエートによる委嘱で「影の女たち」(フェリックス・メンデル スゾーンの影で無き者とされてきた彼の姉であり作曲家ファニー・メンデルスゾーンに敬意を表した企画)に於いてデュッセルドルフで初演。
山根 《カワイイ^_-☆d》
音に対して「かわいいと感じるかどうか」、各奏者のリアルな主観的感覚のみが音楽を成立させる原理となっている作品群の一曲。構造を持たず毎回不確定に音が空間に散らばる、 ひとつの状態による音楽である。楽譜には作者自身がかわいいと感じる複数楽句が提案として書かれており、それらに対し奏者はかわいいと感じなければ演奏しなくても良く、発音や間(ま)を含む全ての選択基準は各奏者が主観的にかわいいと感じるかどうかに依る。これは、書き込んだ記譜を正確・厳密に奏することでは達成し得ない、つまりコントロールできない音の質感を引き出すために試みてきた方法だ。
人の感覚は人の数だけ違う。音の質感も弾き手、聴き手それぞれの体調、気分、空間など様々な要素が繊細に影響し合い変化する。この作品では異なる感覚、多様な他者の感覚に触れ、共感したりしなかったり、想像したり、寄り添ったりすることを意図している。
また「カワイイ」という日本由来の単語には成熟を拒絶したような特徴もあり、特に完成された立派さや崇高さに価値を見出してきた西洋音楽において、今現在、劣るものとされる価値観のひとつであり得るかもしれない。とても個人的で多様、平和で美しい感覚である。 取るに足らないもの、未熟なもの、居場所のなかった音。可愛く未熟であることを期待されるという社会的立場、消費構造。かわいいから何を受け取り、何を差し出すか。
写真:藤本史昭
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