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4月11日「きゃぱい」

朝からの仕事を卒なくこなした。
仕事の中で、もっとステップアップしたいと思うことがあった。自分の得意なことを伸ばすのは楽しいけれど、苦手な部分と向き合うのは苦痛でしかない。それと真摯に向き合う以外に今の自分を成長させる手立てはないのだ、という実態を垣間見た。

思えば、面倒ごとやら嫌いなことからは目を背けて、自分の好きなことばかりやってきた四半世紀だった。
勉強とか、運動とか、人生を歩む上での建設的な知識、例えば保険とか貯蓄とか、そういった知識を身につけることは、僕の中では苦痛でしかなかった。そんなことをするならばネトフリで映画でも観ていたかった。映画を見ているというより現実を見ないための月額500円だった。
しかし、そういったことから逃げ出せない年齢になった。というか、気づくのが遅すぎただけで、本当はもっと早くから真正面に向き合うべきだった今までを振り返ると、こうべを垂れるしかなかった。

僕は何かになりたいという理想の自分を思い描いた時、すべての過程をすっ飛ばして、その状態になりたいと思ってしまう。変化は緩やかでなく劇的であってほしい。
でも、みんなと同じスピードで生きていかなければならない。しかも考えうる限り楽しく。
無理難題に聞こえてしまうが、それは努力という名前が付いているらしい。

今日思ったことは、僕たちは聞くことをもっと重要視しなければいけないということだった。
僕がたくさんのことを知り得ている場合、何も知らない人たちは何を望んでいるのか、静かに耳を傾けるべきだった。知識があるのならば聞き役に徹して、後から回答を与えてやればいい。多くを話しすぎることは私生活においてはいいかもしれないけれど、その他においては、邪魔くさい障害になりかねない、ということを肝に銘じるべきだった。
今まで思っていたことを言語化できるような事象が起こっただけだから、僕は全く落ち込んでいなかった。むしろ爽やかな心もちだった。爽やかに、努力はめんどくせえな、と思っている伸び代しかない青年だった。

帰宅すると、彼女がご飯を作ってくれていた。連絡を取りながら帰宅していたのだが「本物のデブの飯になっちゃった」と言っていたのでどんなものかと思ったら、カレーとポテトとザンギとサラダが食卓に上がっていて、笑ってしまった。絵に描いたようなおデブ飯だった。
ヘルシーなものが好きなはずなのにどうしてこうなったのかは謎だけれど、僕は子供の大好きセットみたいなメニューがわりかし好きなので、笑顔で完食した。『翠』というジンの缶チューハイを飲みながら食べれば、あまり胃もたれをしなくてよかった。

昔からビールが大好きだったのだけれど、最近はジンとかハイボール、電気ブランみたいなお酒をもっぱら口にするようになった。もちろんビールも好きだ。なんでだろう。思い返してみると、料理を基準にお酒を考えるようになったのかもしれない。
大学生の頃に足を運ぶお店では、大抵テキトーなオードブルをつまみにすることしかなかったから、マリアージュを考える隙がなかった。社会に出てからある程度のお金を持つようになり、それなりのつまみを食べられるようになって、このご飯にはこの酒だな、という余裕というか、セットで考えた方がお得な場面に出くわす機会が増えたのかもしれない。

ご飯を食べることを線として捉えるようになったのだろう。「オードブル! ビール! 会話!」という独立した点で捉えるのではなくて、「たちポンをつまみに、日本酒を流し込んでする、良い会話」という線としての食事。どれか一つが欠けると、たちまち味気なくなってしまうような取り合わせで楽しめるようになったらしい。
その線には他にも、お店や話し相手やBGMや時間帯、財布の中身、株価の変動、仕事の出来栄え、世界情勢とかが含まれるのだろう。全部込み込みで食事だ。
食卓はすべてを包み込む。人類みな共通の宗教か。

そんな話をしていたけれど、途中からは、派手な看板の前で写真撮ったら映えそうだよねとか、去年のギャル語流行語大賞を調べたりだとか、あまり建設的でない話をしていた。素晴らしい食卓だった。
ギャル語流行語大賞は「きゃぱい」だった。
なにそれ?

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