終活日記#01「私が死んだらこうしてほしい」
※この記事は従来の葬儀や法事の形を批判する記事ではありません。あくまで私個人のライフスタイルに合わせて進めていく「終活日記」です。
終活は、一人ではできない
終活をはじめた私ですが、まず何から取りかかれば良いのかわかりません。
でも、なんとなく自分の死後はこういう風に供養してほしいな、という妄想はしていました。
とりあえず、自分の死後の供養について現段階でなんとなーく妄想していることを夫に伝えてみることにしました。
それに夫の地元は昔ながらの法事や年中行事を続けている田舎で、
実家には仏壇のある由緒正しき長男です。
私の妄想の中では、自分の死後は従来の方法で供養をしてもらわないスタイルです。
そのため、終活についても供養に対する価値観も、夫に自分の考えを話してみることが必須でした。
私が先に死んだならば自分の死後のことを託すのは夫です。
「私が死んだらこうしてほしい」は、あくまで自分以外の家族にお願いすることです。
「こうしたい」ではありません。
なぜなら、私が希望する死後の「形」を実現するのは、
私ではなく残された家族だからです。
手も足も動かなくなった屍のくせに「ああしろ」「こうしろ」と家族を振り回すなんてめっそうもない。
今から手をすりすりしながら私の死後のことを託します。
「私が死んだらこしてほしい」
もとい
「私が死んだらこうしていただけると幸いです」
といった感じです。
私が死んだらこうしてほしい供養のこと
私の供養に関しては、「こうしてほしい」と願う3つの柱があります。
この3つの柱を軸に、具体的にどうしてほしいのか
私が家族に託す「お願い」が派生していきます。
1.私のことを拝まないでほしい
拝む対象になるから、位牌やお墓に私の名前を刻まないでください。
どうしてもあの世の私に語りかけるデバイスのようなものが必要だったら私の写真でも飾ってください。
でも、後世には残さないで下さい。
2.私のために時間を使わないでほしい
命日だから、○○年季だから、と親戚で集まるのはお控えください。
私はもういません。
私の法事のために遠方から集まることに時間を割くよりは、旅行に出かけてください。
3.私のためにお金を使わないでほしい
私の供養にかかる費用に何十万円も使うよりは、新しい車や家具・家電を買ってください。
また、私との別れで心が疲弊しているならセラピーやカウンセリングにお金を使うのも良いかもしれません。
つまりは「私のために○○しないでほしい」という
ゆるい禁止事項のようなものなのですが、
従来の供養のあり方を根本から覆しかねない内容です。
(そちらの方面の業界のみなさま、ごめんなさい)
果たして家族は理解してくれるのでしょうか?
終活を思いついたばかりの私はドキドキでした。
夫に死後の話をしてみた
日頃から、なんとなく自分たちの老後のことなどを話している夫とは、供養に関しても価値観が合うような気はしていました。
ですが、実際に「もし自分が死んだら」という話は避けていたような気がします。
(そもそも日常会話の話題になりませんし・・・)
「死」に関することは、家族だからこそ話を切り出すことが難しいと思います。
ですが、34歳にもなると親戚の葬儀に夫と出かける機会が増えていったこともあり2人とも「死」を意識する機会もだんだん増えました。
そこで、告別式や法事の道中で少しずつ切り出していきました。
「海洋散骨ってあるじゃん?あれ、いいなーって思う。
私、海好きだし。それに何も残らないし。お墓もいらないし。」
といった感じです。
急いで伝える必要はありません。緊急性はありませんから。
ですが、重要なことなのでちゃんと伝えていこうと思います。
なんていったって人間の死亡率は100%ですからねっ!
夫と意見がピッタリ合った
実は、夫も自分の死後の供養については私と同じ考えでした。
(この人と結婚してよかった!)
私も夫も実家に仏壇があり、昔ながらの供養を行っていたことから
「自分たちの代でも今まで通りの方法で続けよう」とするのは難しいだろう、という考えがありました。
子供のいない私たちは自分たちの供養は、なおさら方法を変えていくべきだということになりました。
(子供がいたとしても、自分たちの供養を従来通り子供にさせるのは申し訳ない・・・)
そこで私が希望する供養の3つの柱に、夫がズバリと付け足してくれました。
1.私のことを拝まないでほしい→「仏壇やお墓は必要ない」
2.私のために時間を使わないでほしい→「法事はナシ」
3.私のためにお金を使わないでほしい→「葬式はやるけど最小限」
少し冷たく聞こえるでしょうか?
いいえ、家族や親戚のことを思ってこその方針です。
たくさん考え、忖度し、出した結論です。
もし、従来通りの供養が大変だなと思ったことがあるのならば、
一度考えてみるべきです。
「今まで通りのやり方でやらないと角が立つ」
「バチが当たるかもしれないから」
という理由でやっていませんか?
それは、本当に故人のためになりますか?
残された家族は幸せになりますか?
本当にそうだったらいいと思います。
ですが、答えが「NO」ならば、別の方法を模索してもいいのでは?
供養を全くしないというわけではありません。
その時代のライフスタイルにあった供養の在り方を、考えるのです。
(あれ?怪しい宗教の演説みたいになっちゃった・・・)
自分の親や兄弟に供養の価値観・方法を現代風に変えろとは言いません。
急に変わることは難しいし、従来通りに供養を進めることが幸せな場合ももちろんありますから。
ですが、自分の生き方を自分で選ぶのと同じように
自分の死後の「形」もできれば自分で選んでみたいのです。
こんな私はわがままでしょうか?