がらんどうは歌う

わたしは、芝居をしているのでしょうか。
いまわたしはひとつの真 実を、語ろうとしました。

劇場は、わたしにとって、ひとつの、広大な原野なのです。
ここには可能性以外の何もありません。原野には何もないのです。
何もないからこそ、パラドキシカルに言えば、全てがあるのです。
神父は、わたしとあなたがたが、こうして向いあっている ように、祭壇を背にして立てば、それは神秘的な、そして体系と呼ん でいい世界を背おって、あなたがたに向います。
そして、わたしたち は人生という重荷を背おって、罪あるものとして、生きているのであ ると、あなたがたに話しかけます。
企みをもった政治家であってもや はり、ひとつの論理をもって、その論理を、あなたがたに説得します。
 彼らは、神父さんと政治家とを彼らというふうに呼ぶのは、軽率のそ しりをまぬかれないかも知れませんが、共に論理をもち、その論理の うちがわで、論理というのを彼らの世界というふうに言えば分りやす いかも知れませんが、それを、しゃべり、自分の論理のうちがわへ、 導き入れようとするのです。

わたしには、そういう論理はありません。
原野というのは、論理の そとにあってがらんどうです。
エンプティなのです。
混沌といっても いいでしょう。
これは、何かから遠ざかろうとすれば、それも意識的 に遠ざかるほど、近づいてくる世界だと、わたしは思います。



特に私が好きな部分です。

「がらんどうは歌う」は、楽健法の創始者山内宥厳先生がつくった一人芝居の脚本です。ある時から、自分で演じるようになったそうで、毎年公演しています。

32歳の時に一晩で書き上げたこのがらんどうは歌うは、すべてのことが凝縮されているように思います。


楽健法は、足で踏む健康法ですが、

「管のを通す」というとってもシンプルなことを楽しく楽して突き進めば健康になる方法です。

管っていうのは、あらゆるところにあって、血管をとおしたり、リンパ管をとおしたりしたら、物理的に体の滞りはなくなりますが、心のつまりをほどくことで、考え方が柔らかくなる。がらんどうになること、何にも束縛されつ囚われず自由に、それができること、管を通すことができればいいですね。最近、パイプを通す 天からの力を通すためには、すべてを手放せと言われていて、これも管だなと。パイプがとおれば、すべてを放てば、人間じゃないなにかすごいパワー体になれるかもしれませんね。


「がらんどうは歌う」にガツンと感銘を受けたひとは、楽健法を続ける傾向になるなーとなんとなく思っています。

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