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旅のスタート地点

思えば遠くに来たもんだ。

今、私はオーストリアの自宅のリビングでこれを書いている。

もうすぐクリスマス。

そうだ、3年前の昨日、初めてオーストリアに来たんだった。

沖縄で彼から受け取ったスペシャルバウチャーは、クリスマスにオーストリアへと招待してくれたもの。

中学高校と吹奏楽に明け暮れ、大学で心理学を専攻した身としては、いつかは行ってみたい憧れの国だった。

まさか、こんな形で夢が叶うなんて。

年を越して帰国する時には、婚約の報告を持ち帰って周囲を驚かせてしまった。三十路を目前にして、「そろそろ結婚、いいの?」とご心配やお節介をしてくれた愛すべき人たちをよそに、私は、まったく結婚の気配なく、共に未来を創るしごとと里山での日々に夢中だった。言われてみれば、霧中でもあったのかもしれない(笑)

"Life is full of surprises(人生は驚きに満ちてる)." 昔、サンフランシスコで好きだった人とお別れしなくちゃいけなかったときに言われた言葉で、当時は「そうね(また会えたらいいね)」と思った。そんな淡い思い出が浮かんだけれど、いやはや、それは単なる言葉ではなかった。

人生なにが起こるか分からない。

夫になった彼はドキュメンタリー映画の監督で、私は彼の映画を小さな里山の町で自主上映した地方の映画部員。出会って3ヶ月、映画の中にいた主人公が人生のパートナーになるとは。「人生なにが起こるか分からない。」ずいぶん説得力が増してしまったものだ。

一寸先は闇かもしれないし光かもしれないということ。つい数ヶ月前、数週間前、数日前、数秒前には思いもしなかったことが起こったりして、その連続が人生だったりする。

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その時々で思い描いていた計画なんて、いくつあったか数え切れない。あんなことこんなこと、やってみたい、やってみよう、どうできるかな、いっぱい考えて奮闘して、形にならなかったものもたくさんある。

そうして今、進んできた道の先で、まったく思いがけない場所にいる。けれど、どういうわけか、ずっとずっと願っていたところを歩んで来てもいるのだ。それは夢に見たオーストリアという国にいるという以上に、一緒に過ごす人々、手がけるしごと、毎日の暮らし、いろんな意味で感じること。

大学生で東京に通い就職活動をしていたときは、内定をいただけるように一生懸命だった。結局は内定を辞退して就活をやめたら、当時悩まされていた蕁麻疹がスーッと退いて、驚いたことがあった。身体は正直だと、賢いと思った。

頭で思い描く行きたい場所は、所詮自分の持ち札の中でしかない。

私はこれからどこへ向かうのか。

なんとなくは知っている。ただ言葉にしていないだけで、たぶん、心や身体や魂は、もう知っているのだと思う。だから、不安はない。でも、残念なことに、それを言葉にしないと自分でも分からないし、誰かと分かち合うことができない。

分かるように言葉にすると、その途端に一つだったものが散り散りに分割されたり、含まれていたものが取りこぼされたりしてしまう。それがイヤでイヤで堪らなくて、それくらいなら何も言わないでいる方がいいと今までやって来てしまった。

そうしてここまで来れたから、願っていたところに来れたから、私はとても満たされている。何かにつけて手を合わせては「ありがとうございます」と唱えていたおばあちゃんの姿が脳裏に浮かぶ。私も今、とてもありがたく思う。

そして、今なら違うやり方をやってみられる気がする。やってみたいと思う。分かりたい、分かち合いたい。だから、言葉が語ってくれるもの、ストーリーが連れていってくれることに、少し辛抱してじっと、耳をそばだてて、目を凝らしてみるとき。

私は一体どこに来たのか。これからどこに向かうのか。今はまだ誰も見たことがないこの先を、手札から選ぶのではなく、立ち現れてくる何かを感じとってみたい。

それが、ストーリーの旅を始めた理由みたいなものだ。そんな過去と未来の間に立つ私の好奇心が、この旅のスタート地点。この先も、人生なにが起こるか分からない。それだけが確かな中で、自由に歩みを進めるために。


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