揺らぐ日常
「あいこうさん、診察室1にお入りください」
待合室に乾いた院内放送が響いた。
ふうっと、ため息なのか深呼吸なのかよく分からない呼吸をしてドアを開ける。
「どうぞ、お座りください。じゃあ、早速診ましょうか」
診察台に顎を乗せて額を機器に付ける。
視線をまっすぐ向けると、眩しい光が目に入り込んできた。
眼の中で、黒い点や糸くずのようなものが目立つようになった気がしたのは先週末のことだった。目に付いているゴミではなく、視線を動かすとその動きに追随して黒い点も動いてくる。
それは突然現れたわけじゃない。昔からそんな類のものは眼の中で見てきた気がするが、最近少し量が増えてきた気がした。
調べてみると「飛蚊症」だろうということはすぐに分かった。ただ怖いのは、それが網膜剥離などの原因になるということだった。最悪、失明もありえる。そうじゃなくても、手術の可能性もある。
眼の手術とか、絶対ゴメンだ。
考えただけでもゾッとする。
別に気にしなきゃ全然無視できるはずなのだが、気にしてしまうとトコトン邪魔に感じる。
「大丈夫だろ」
笑い飛ばすこともできる。ただ、今年3月に甘く見てた結果、手術になった痔瘻の件もある。軽々しく考えられない。
診察に行こう。
そう思ったのは月曜日。予約が今日しか取れず、約5日間はモヤモヤと色々なことを考えた。
これで手術になったら、どうしよう。
見えなくなったら、どうしよう。
息子の顔や成長を見られなくなるのは、嫌だな。
あ、文章も書けないな。てことは、noteも書けないや。
普段、当たり前のことがどれだけ大切かがよく分かった。こんなにたやすく日常は揺らぐものなんだな。今週の予定の中で今日の診察が、一番気が重かった。
眼科では、眼球の大きさ、眼圧など、こと細かに検査した。眼底を検査するために瞳孔を開く目薬もして、診察に臨んだ。
「上見てください。次は右上。はい、右」
眩しい光を直視しながら、眼を動かす。言われた通り動かすと眼の中の血管らしきものが見える。
そのまま、診察は淡々と進んだ。
「結論としてですが」
機器から目を離し、医師は顔を上げて言った。
「異常はありません」
…良かった。
とにかくホッとした。
飛蚊症なのは違いないが、30代後半〜40代なると始まる眼の老化のひとつらしい。
治療薬はない。
けど、手術じゃないし「大丈夫」と医師の太鼓判を押されることほど心強いものはない。
検査と診察が終わり、待合室に戻った。
瞳孔を開く目薬のせいで、近くのものに全然ピントが合わない。「大丈夫だった」とLINEでメッセージを送ろうと思ったが、それも無理そうだ。
「こりゃダメだ」
天井を仰いで目を瞑る。
思わず、ふうっと息を吐いた。
「良かった〜」
同じ呼吸のはずだが、診察前のそれとは比べものにならないくらい安堵感に満ちてたものになっていた。