仮想人生 はあちゅう
寂しさは刺すように一瞬なのに、信じられないくらい体の奥深くまで到達してしまう。
ページをめくった1行目から、ぐっと引き込まれた。美しくて、それでいて遠すぎない、誰の中にも生まれる感情を、こんなふうに表現できるなんて。
SNSが生活と切り離せないツールになって、人とつながることのハードルがある意味で下がった。私たちはテキストコミュニケーションで誰かと出会い、その人のことを深く知りたいと思うようになる。最初は興味本位だったとしても、SNSというツールの魔力なのか、前提条件のすり合わせが容易くできるからなのか、価値観の似た人と出会える確率も高く、実際に会って話す仲になることも多くある。
いくつもの仮想の人生を生きる、分身として、分人としての私。居場所がたくさんあるのは悪いことじゃない、むしろいいことだと思う。いろんな自分を表現できる人を羨ましく思ってしまう。
忙しいのはいい。忙しいということは難しいことを何も考えなくていいということだ。
誰かにとってのひどい男が、私の今日を救ってくれることだってある。
誰かに救われた私が、別の誰かにまた救われて、いつか誰かを救うかもしれない。絶望の淵で書いた文章が、誰かの希望になることだって、ふとかけられた言葉が生きる理由になることだってある。前を向いて歩いていく旗になることがあるって信じている。
誰にでも同じ顔を見せている人はいない、多面的で、対する人によって顔を変える。だから、一面だけを見て判断することは怖い。どれだけ想像しても足りないほどに想像し、それでも完全にわかることなんてない。そのことを前提条件として、話ができたらいいなって思う。
理由なんてないよ。気づいたら私の人生にいたんだよ。
人が人を好きな理由なんて説明出来なくていいのではないだろうか。明確なきっかけだってなくたって構わないじゃないか。
気づいたら人生にいた、それでいいじゃん。ロジックじゃ説明できない、恋自体がもうバグみたいなものだから。
曖昧に、境界線はゆるく、でも戻ろうとしても前とまったく同じ関係には戻れない。自分でコントロールできること、できないことに流されて、ちょっとずつ居心地の良い形を見つけていければいいなって思う。
小説の中の登場人物たちは変に強くなくて、正しくなくて、それがいいなって思った。毎日を生きていて、やさしくあろうとしたり、正しくあろうとしたり、間違えたり。だから、これは私だって思う部分があったんだろうな。
仮想人生はあちゅう