【子ども3人という夢】父の言葉とぼくたちの経験
「3人いれば社会ができる。だから、子どもは3人ほしかった」
とは、ぼくの父親の言葉だ。
三人兄弟の末っ子であるぼくは、大学生くらいの時、自分が生きる意味や将来を模索していた。いわゆる、「答えのない問い」とやらが大好きになる年頃で、当時のぼくも(もしかしたら今のぼくも)例外ではない。
「なぜぼくは生まれてきたんだろう」という哲学的な問いを、「なぜ、おれを生んだ?」という問いに変換し、この問いでは答えにくいかなと自分なりに気を遣った挙句、「なんで子どもを3人産んだのか?」と父親に聞いてみたのだ。
「2人だと関係性は一つしか生まれない。3人いれば、いくつもの関係性が生まれる。上の子と真ん中の子の関係、上の子と末っ子の関係、真ん中と末っ子の関係、3人の関係、時には2対1になることもあるだろう。いくつもの関係性を経験できる。つまり、3人いれば社会ができる」
といった内容のことを言われた。
その頃から、
「子ども3人の父になる」というのは、ぼくにとって夢になったのかもしれない。
辞書にかいてある【夢】という言葉の定義はあれど、その重みや範囲は人それぞれ。絶対に叶わないことを【夢】という人もいるし、叶いそうで叶わないことを【夢】と呼ぶ場合もある。
なりたい職業、やりたいこと、なりたい自分、行きたい場所、会いたい人、得たいお金を【夢】とする一方で、努力次第で実現可能なことを【目標】と呼ぶ人もいる。
「叶うかもしれない」
そんな段階になって、「ああ、これは自分の夢だったんだ」と気づくこともある。
3人目の子どもができたかもしれない。
リアルなつながりの人たちへの報告は、病院に行って、心拍が確認できたり、9週や12週をこえたあたりでないとできない。
この記事を、ぼくのリアルな関係の人たちは1人も見ていないので、書いておきたかった。今の気持ちを。
当然のことながら、子どもは1人だけでも大変だ。その大変さを上回るほど、多くのことを与えてくれることを経験している最中だが。
現在は2人子どもがいるが、奥さんのおかげで、なんとかやっていけていることも忘れてはならない。
ただ、ぼくも奥さんも自分自身が三人兄弟で、三児の親になりたいと心のどこかで思っていた。特にぼく自身は、自分が三人兄弟の末っ子ということもあり、三人目を切望していた。
「自分は生まれてきてよかった」と思いたいのだ。
昨日、奥さんは妊娠検査薬を使ったらしい。陽性だったようだ。6週目くらいだそうだ。まだ病院にも行ってない時点でこんなことを書いていいのか分からないが、どうか無事に元気に育って生まれてくれますように。
「子ども3人」が【夢】だったんだと気付かされた。色んな意味で大変になるけど、どんなことが起きても、子どもが元気で幸せならそれでいい。それさえ、叶えてくれるならどんなことでも受け入れよう。
新しい命を感じる時、ふと思い起こされるのは、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんのこと。3人の親になる自分を見せたかった。
あんなに人に迷惑をかけ、どうしようもない自分が親になった姿を見せたかった。
いや、きっと見てくれているかな。
だったら、どうか見守っていてください。
自分の親にも見てもらいたい。驚きはしないだろうけど。子ども3人の父親になるかもしれない。
親もこんな気持ちだったのだろうか。
というか、ぼく自身が3人兄弟の末っ子だが、実は2人の兄も、それぞれ子どもが3人いる。
「3人いれば社会ができる」と言った父親の言葉を、兄が聞いたわけではないだろうが、心のどこかで「子ども3人ほしい」と思っていたに違いない。自分自身が「三人兄弟でよかった」と思っていたに違いない。
もし、ぼくに3人目の子どもが生まれたら、ぼくの親からすると9人目の孫になるわけだ。必ずしもそうとは言い切れないけれど、なんか自分の人生が肯定されるような気がした。
「子ども3人の父になる」
これはぼくにとって夢だったんだ。