ありふれた奇跡~夢化した日常~
思えば、夢なんか叶ったことなんて一度もない。「叶った」なんて、まるで夢がひとりでに叶うかのような言い回し。
叶えるのが夢。
もちろん、夢なんか叶えたこともない。
プロ野球選手になりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか、お花屋さんになりたいとか。
夢っぽい夢。
叶う叶わないとかでもなく、叶えるとか叶えないとかでもなく、そもそも追いかけたことすらない。
描くだけ描いておいて、(しかも頭の中だけで)文字通りの絵空事。
そんな夢に対して、極めて不誠実なぼくが、夢について考えてみたら、当然とも意外とも言える結論に達した。
35歳になって、35年を振り返ってみると、なんとなく「夢っぽいもの」が叶っていることに気がついた。
「それは夢とは言わない」と言われそうだが、「夢」なんて人それぞれ。価値付けも、基準も、言葉の定義も。
ぼくが気付かぬうちに叶えてきた夢を考えてみることで、今後の「かなえたい夢」を描こうと思う。
かなえた夢①
産まれたこと。この国で、この親のもとに。
国ガチャも、親ガチャも、兄ガチャも、これ以上ない大当たり。願ってもないのにね。
かなえた夢②
今の友達と出逢えたこと。「出遭えた」と言ったほうが正しいのかもしれない。かけがえのない出逢い。縁を得て恩を知る。
かなえた夢③
今の仕事に就けたこと。小学校教員。結果的な夢。なりたいと思ったことは一度もなかった。今もそう。ただ、そこで得たかけがえのない子どもたち。きっと夢だったんだろう。
かなえた夢④
結婚。今の奥さんと結婚して本当によかった。結婚したいと思ったから結婚したわけだが、本当によかった。運が良かったとしか言いようがない。結婚後に相手の本性を知ったわけだが、これ以上の奥さんはいないと思えるほど、素敵な人だと思う。
かなえた夢⑤
子どもが産まれたこと。親になったこと。子どもが2人いる。なんというか、到底、今存在している言葉をどれだけ並べても表現できないほどのかわいさがある。
「夢」と呼ぶには、あまりにもありふれていることかもしれない。同時に、「誰もが通る道」にしては、あまりにも奇跡的なことだとも思う。
生きることは、当たり前と奇跡が織り成しているものだ。
35年間の中で、かなえた5つの夢のことを考えると、今後、かなえたい夢が見えてくる。
きっと、ありふれているもの。
「子どもの成長」とか、「子どもの結婚」とか、「孫ができる」とか、時間の経過がかなえてくれるもの。
何もしなくても、時間は経つ。夢はかなう。ただ、これが夢だったんだって思うためには、そのプロセスがとてつもなく重要な気がしてくる。
結果(ゴール)には、いつか辿り着く。マラソンもそう。歩いても辿り着く。走っても辿り着く。どういうプロセスで辿り着きたいかが重要。
かなえたときに、「ああ、これがおれの夢だったんだ」って思えるような、道(経過)を歩んでいたい。
夢なんか一度も叶ったことがない。
そう思っていたが、なんか今を大事にしていれば、勝手に「夢化」していく。
生きることを、「ありふれた奇跡」と定義づけることにする。
それを「夢化現象」と呼ぶことにする。
誰にでもあるはずだ。あれが夢だったんだって思うことが。
残念ながら、子どもの頃に描いた夢の99%くらいは、叶わない。
かといって、不幸なのかと問われると、そうでもない。
夢化したものが、一生懸命生きていくことで勝手に叶っていったからだ。
未来に夢を描くのではなく、過去に夢を探してみるのもいいかもしれない。
今を大切に生きていくことこそ、過ぎた夢が未来をよりよくしてくれるから。