漫才衣装論① なぜ衣装が重要か。
ビートたけし作詞作曲の『浅草キッド』では、コンビを組んだ2人が「同じ背広」を買い、「同じ形のちょうたい」を作ったが、「同じ靴」は買えず、それをネタにしていたというエピソードが描かれている。
同じ衣装を着るということは漫才コンビの証だったわけであり、それを買うということで二人はコンビになったということである。
このように漫才師と衣装は切っても切り離せない関係にある。
衣装がなぜ重要なのか。
色々とこねくり回して、「フィジカル」という言葉を使ったりしながら、漫才の衣装について考えようとしていて、ひとまず書き終えたあとに、下の記事を見つけました。
正直、これにすべて衣装の重要性とかは書いてある気がするのですが、まあ、書いてしまったものをそのまま放置するのはアレなので、そのまま載せます。
前回、漫才は演者の姿がどう見えるのか、声がどう聞こえるのかなど、つまりはフィジカルが気になってしまうということを書いた。
となると、デリケートなことだけれど、自分の体型だったり、声質だったり、容姿だったりといった、自分の性質を活かして笑いを作らなければならない。
声の大きさや、体型はその人の努力で変えられるのかもしれないが、声とか身長とか漫才に影響するフィジカルはほとんどが生まれ持ったものになる。
つまり、漫才にはその人の人生が現れるのだ!
といえば聞こえはいいが、頭の中のセンスだけを武器に勝負することは難しいということでもある。
残酷である。
ただ、体型を除いた「見た目」に関してはある程度、努力によって変化させることができる領域がある。
そりゃ、体型だって頑張れば変えられるでしょう。
作品によって体型をムキムキにしたり、がりがりにしたり、ぶよぶよにしたり役作りする俳優も存在する。
そんなストイックな漫才師が出てくる可能性はゼロではない。
「このネタはやせた人の方がウケるんで、20kg絞ってきました」
とか言ってのける漫才師。
でも、そんな人の漫才を僕は笑って見れる自信がない。
漫才における衣装の重要性
まあ、さておいて。
人の見た目は、容姿や体型だけで決まるのか。
当然、そんなわけない。
さまざまな要因が集まって「見た目」が作られる。
その大きな要因の一つが、衣装だろう。
人間の全身にはよっぽどの状況でない限り、その表面の大部分には服が着せられている。
人の認識の中で顔や体型の印象の方が比重としてはいえ、視覚情報に占める面積やら体積やらとしては服というのは一番大きいかもしれないわけで、ちょっとした衣装の変化でも、印象はガラッと変わるはずである。
漫才を見ている人は感覚が敏感になるとはいえ、人間の目なんてのはいい加減なものだから、着ている衣装の種類や色、着方で、実際の体型よりも太って見えたり、痩せて見えたりする。
着ぶくれ、着痩せなどをうまくコントロールできれば、「変えられない」体型だってうまくごまかせるかもしれないし、逆に体型を強調することだってできる。
それに、やっぱり観客のこれまでの経験みたいなものは頭の中に蓄積されているわけだから、衣装の印象と、衣装を"着ている人"の印象を一緒くたにしてしまう。
要は、金持ちっぽい服を着ていれば、その人は金持ちに見えるし、ヤンキーっぽい服を着ていたら、ヤンキーに見える。
ボケっぽい服を着れば、ボケる前であっても観客は、「ああこの人がボケで、もう一人がツッコミの漫才なわけね」と感覚的にわかるわけである。
深くて長い関係をもっていて、相手の本質をよく知っていれば、衣装による効果はなくなるけれど、漫才師と観客との間には、舞台と観客席の距離で数分間のお付き合いくらいしかない。
「名前だけでも覚えて帰って」くれれば十分くらいの極薄な関係性である。
その人の本質的なものを完全に読み取ることなんてことは不可能だ。
それゆえに、衣装を工夫すれば、観客にどういう人に見られたいかをコントロールすることだってできるわけである。
具体的な例については、また今度。
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