
#13)調査書の記載簡素化 どこまで?

生徒が受験する高校入試に向けて、中学校教員が作成する資料の1つに調査書があります。広く一般的に言うところの内申書というやつです。高校は入試の成績とこの調査書の成績を総合的にみて判断し、合否を決めます。
調査書に記載する内容としては主に、
・志望校、志望学科、氏名、生年月日、3年間の成績(ABCや5段階)、
特別活動の記録、総合的な学習の時間の記録、行動の記録、総合所見、
校内外の実績、出欠席等の日数
などがありますよね(他にも自治体によって様々)。
一昔前と比べれば相当記載様式は簡素になっていますが、それでもなお、年末に調査書を作成する学級担任や、それをチェックする調査書作成委員会(進路委員会など呼称は様々)の負担は決して少ないものではないです。
調査書の記載簡素化を進める自治体が増加
そんな中、調査書の記載を簡素化してしまおうという動きがちらほら散見されます。いくつかの例を挙げると…
《広島県》
令和5年度入学者選抜から、「志望校」「氏名」「性別」「学習の記録(評定)」のみの記載とした。代わりに入試に「自己表現」を追加した。
《千葉県》
令和8年度入学者選抜から、「総合的な学習の時間の記録」「出欠の記録」「行動の記録(第3学年)」「総合所見」が削除される。
《新潟県》
令和8年度入学者選抜から、「各教科の学習の記録(評定)」のみの記載とする。
などが確認できます。他にも、一部変更がある自治体もあるようです。

考えられるメリット・デメリット
ここからは私見ですが、調査書様式簡素化の流れは非常に良いことだと思っています。まず、そのメリットとデメリットとして、以下のことが考えられそうです。
<メリット>
〇透明性と客観性の担保
・出欠席日数をなくしたことによる、不登校生徒への配慮
学校に行けないが、家庭やフリースクール等で意欲的に学習を進めて
いる生徒は決して少なくない。調査書に欠席数が記載されていなけれ
ば、フラットにその生徒の努力の成果を評価することができる。
・行動評定をなくしたことによる、担任主観のない評価
行動評定は、生徒の「基本的な生活習慣」から「公共心・公徳心」ま
での10項目について評価される。この基準は難しく、担任の主観によ
り判断されることが多い。もちろん当該生徒に関わる他の教員からも
チェックを受けるが、いずれにせよ基準が難しい。これがなければ、
主観に左右されない情報が適切に高校に届くことになる。
〇教員の業務軽減
・各種所見を無くしたことによる担任業務の軽減
「総合的な学習の時間」「総合所見」の記述には労力がかかる。他に
も記述欄が少ないほど担任の負担は軽減される。
・チェック体制の軽減
調査書は重要書類のため、会議を開き必ず複数人で2重チェックをし
ながら細かく点検する。記述欄が少ないほどその業務が軽減される。
<デメリット>
〇受験者の人物像把握
・高校側が受験者の人間性を理解しにくい
記述や出欠席数がないことで、高校側は生徒の素行について入試時に
把握することが困難になる。中途退学は避けたいところ。
〇中学校生活の意欲
・本人や保護者の教科得点以外のモチベーション低下
学習が得意ではないが、代わりに生徒会活動や各種班長、部活動のが
んばり等で「内申点が上がることがない」と感じてしまい、学校生活
における規律向上や自己成長をあきらめてしまう可能性があるかも知
れない。
調査書の記載簡素化についての主観
個人的には大賛成です。理由は、上記メリットの通りですね。ですからデメリットについて少し考えてみます。
〈高校側が受験者の人間性を理解しにくい〉
受験に必要なのはやはり透明性と客観性の担保です。高校側が知りたい情報については、合否決定後に高校教員が中学教員と連携しながら情報交換すればよいだけの話です。むしろ紙面よりも直接話した方が齟齬が生じることも少ないし具体的な情報が得られるはずです。
〈教科得点以外のモチベーションが低下する〉
それを何とかするのは中学校教員です。生徒指導において、受験をちらつかせて指導する教員をたまに見かけますが、それはもう取引と同義に感じます。「評価を下げられたくなければちゃんと頑張れよ」では教育とは言えませんね。受験とは関係なく、生徒が自分から成長を求め、やりたいことを発見し探求できるような人材に育てたいものです。
そのためには、教員個人の生徒指導力(生徒をそういう気持ちにさせることができる教員は確かにいるが、教員みんながそういうわけでもない)に頼るのではなく、学校全体としての「ポリシー」とそれを実現するための「システム」が重要です。

そういう意味でこれからの教員に求められそうなこと
働き方改革を含め、教員の業務改善と業務軽減はこれからも進むと思います。そうなっていったときに、教員は「楽になった。わーい。」かも知れませんが、同時に「適正な仕事量になった分、その質が問われる」ことにもなる気がします。
極端な例として、今後部活動がさらに軽減されていくでしょう。これまで部活動に熱中していた教員は「自分は主顧問として、大変な部活動を受けもっているんだから校務分掌を配慮してくれ」と、これからは言えなくなるわけです(こんなこと言う教員は一部でしょうけど)。
今回の件を含め、(無駄と思われる)業務負担はどんどん軽減するべきと思います。私自身も教員として身軽になった労力と時間を使い、中学生の時期に「学校でしか学べないこと」「学校でしか育たないこと」を生徒が味わえるような教育を提供したいものです。