ブラジル留学日記09「五感に響くカラフルな空間」
朝起きると既に暑いので、近所の売店にアサイー(アマゾン原産の栄養価の高い植物)を食べに行った。
日用品と食品が売られるとても小さなお店で、レジの上に「アサイーあります」の看板にサイズと値段だけが書かれている。
1人だったら気づきもしないが、先日今西さんに連れて行ってもらってから、まるで地元民のように通うようになった。
それでも、アサイーを頼むと何かを聞かれるので、適当に答えると、バナナが入っていたり、グラノーラがついてきたりする。
通っているうちに「バナナ」「グラノーラ」「レイチコンデンサード(練乳)」はオプションで頼めることがわかったのだった。
その後はポルトガル語の勉強をしたが、今夜のショーのことで頭がいっぱいだった。
今日はあのブラジルの有名アーティスト、ジルベルト・ジルがゲスト出演するショーの行くのだ。
メインはブラジル北東部バイーア州で結成されたレチエレス・レイチ&オルケストラ・フンピレスという管楽器と打楽器による大きなバンドで、Youtubeで数回聴いたことがあった程度だった。
この胸騒ぎはショーではなく、「ショーの会場まで無事にたどり着けるか」という不安からくるものだった。一緒にチケットを買ったヴィウマさんとは、会場で待ち合わせしている。
会場はセスキ・ポンペイアという大きな文化施設。
最寄り駅はなく、下宿先からタクシーで行くには金額的に厳しかった。
Googleマップだけを頼りに、地下鉄でマレシャウ・デオドーロ駅まで行って、そこから路線バスに乗ることにした。
バス停は暗い高架下にあり、セスキ・ポンペイアの近くを通る番号(ブラジルのバスは行き先ではなく番号とアルファベットが表記)を書いたメモを握りしめながらバスを待つ。
周りにいる人にジロジロ見られているような気がして、早くバスが来てくれないかと願った。
ようやく来たバスに乗り込み、「6つ目の停留所」「左手にショッピングセンターが見えたら次」と呪文のように唱えながら降りる時を待つ。
1本道のためかバスの速度は非常に早く、信号にひっかかる度に運転手は苛立ちを隠せないような急ブレーキを踏んだ。
初めてのバス体験に、途中から停留所を数えられなくなったが、ショッピングセンターと、持ち前の勘でなんとか目的の停留所で降りることができた。
レンガ作りのセスキ・ポンペイアの入り口周辺は暗くソワソワしていたが、門をくぐると別世界があった。
元々倉庫だったこの場所は、セスキが文化施設に大変身させたものだった。
この「セスキ(SESC)」というのはブラジル商業連盟社会サービスのことで、サンパウロを始めブラジル各地に文化施設を設けている。
劇場、図書館、コートやプールなどの運動施設、食堂を備え、市民が文化と触れ合うことを目的としている。
コンサートや食堂の価格設定も良心的で、もちろん敷地内には誰でも自由に出入りできる(運動施設の利用は有料/会員制度あり)。
サンパウロ市の場合、いつ強盗に遭うかわからないような道から、門をくぐるだけで一変して文化的で平和な空間が広がるセスキの施設が複数ある。
とても不思議な感覚で、同時に安心した。
待ち合わせの時間よりも早く着いた私は、会場内を歩き回った。
黄色い灯りが木漏れ光のようになっている木の下で、カフェを飲みながらそれぞれの時間を過ごす人々。
さっきの殺伐とした高架下のバス停のから、そんなに離れていない場所とは思えない。
標識やゴミ箱さえ色鮮やかに塗られていた。
このゴミ箱に、私はとても感動したのだった。
約束の時間、劇場前でヴィウマさんと会った。
私たちは売り切れ寸前でチケットを買ったので、一番後ろの席だった。
劇場は1200席、真ん中にステージ、階段席が両側にあり、別の面には2階席が作られている。
倉庫だったとすぐにわかるような、むき出しのレンガやコンクリートが一般的な劇場と異なりワクワク感が増す。
白い衣装に身を包んだオルケストラ・フンピレスのメンバーがステージに登った。体格が良く、殆どが褐色の男性たちだった。
最後にこの集団のリーダーであるレチエレス・レイチが現れた。
レチエレスは目に見える程の強いオーラに包まれ、その神秘的な雰囲気はまるでこの集団と私たち観客で構成された村をまとめる村長のようだった。
約20人が全力で奏でる音が小さな倉庫の中で反響すると、音響システムは到底それをまとめきれず、正直耳をふさがないとならないぐらいだった(後に何度かこの劇場でショーを観ることになるが、正直、音響は良いとは言えない)。
ただ、ショー言うより儀式に参加しているような体験は、私たちを別の場所へと連れて行き、いつの間にか耳に突き刺さる痛みも忘れさせたのだった。
終盤、ジルベルト・ジルが登場した。
おそらく私達が思っていたよりも遅い出番だった。
(↓↓ なんと、この時の様子を録画していた人がいた!)
ジルベルト・ジルは隣村からやってきた村長のようだった。
この村の長レチエレスに挨拶をし、一緒に儀式を楽しんだ。
アンコールでは、ジルベルト・ジルが村人たちをステージ近くに集まるよう呼び始めた。村人たちは村長の恩恵を受けるかのように下に向かって一気になだれ込んでいった。
状況を理解するのに時間がかかった私は、波に乗り遅れ、そのまま最後尾でその様子を見つめ圧倒されていた。
ショーが終わったら、ヴィウマさんの家に泊めてもらう約束をしていた。
夜遅く、私が下宿先まで一人で帰ることを心配してくれたのだ。
ヴィウマさんの家までタクシーに乗り、ショーの感想を言い合った(ヴィウマさんは日本に住んでいたので日本語が話せる)。
シャワーを借り、ベッドに横になると、色鮮やかな残響と倉庫の中の赤い光が頭の中をグルグルしていた。
そういえば、ブラジルで誰かの家に泊まるのは初めてだ。
遠慮と残響で、しばらく眠れなかった。
翌朝、キッチンに行くとヴィウマさんに「朝ごはん食べる?」と言われた。「ハム、チーズ、どっちも入れていい?」と聞かれ、私は頷いた。
ヴィウマさんは手のひらからはみ出る大きさのパンを1つ掴み、もう片方の手でナイフをとると横から切れ目を入れた。
マーガリンかバターらしきものを塗ったあと、ハムとチーズを切れ目に入れ、閉じた状態で熱したフライパンに乗せた。
パンが温まると、ヘラでそれを潰し、ホットサンドにした。
これはブラジルの家庭で食べられる一般的なサンドイッチらしい。
2010年、初めてブラジルを旅行した時にラタン航空の国内線で食べたサンドイッチと同じだった。美味しくて忘れられなかったので、再会して感激だった。
このサンドイッチは「ミストケンチ」と言うらしい。
「そうか、下宿先にトースターがないのは、ブラジル人はパンをフライパンで焼くからなのか!!」
帰宅して、早速スーパーでミストケンチを作る食材を買いにいった。
この時、量り売りのパンを買う勇気がなく、袋入りのパンを買った。これはヴィウマさんの家で食べたフランスパンではなく、ミルクパンと呼ばれる別のものだったが、しばらくの間、これが私の定番朝食となった。
【後日談】
レチエレス・レイチは2021年、新型コロナウイルスに感染し、61歳という若さで亡くなった。レチエレスが亡くなった後、音楽評論家の柳樂光隆さんのインタビュー通訳としてオルケストラ・フンピレスやレチエレスと交流のあったアーティストの声を聞く機会に恵まれた。レチエレスはアフロ・ブラジル文化を守った重要人物だった。
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