Priority -優先順位を見定めよ-
少し時間が経ってしまいましたが、
先週土曜日は大学のゼミの同窓会(reunion)でした。
コロナ禍のご時世、オンラインでの開催に踏み切ってくださった
幹事の皆様(しかも完全なるボランティア)、
本当に本当にありがとうございました。
そして、敬愛する山本先生とお話ができたこと
本当に本当に有り難かったです。
毎年、できるだけ出席したいと思いながらも、
東京から大阪へ帰るタイミングがなかなか合わずまちまちな出席数でしたが、
今年はオンラインだったので気軽に参加できました。
個人的には、今後もオンラインとリアルの混合的な参加が可能になったらありがたいなぁ、なんて思ったり。笑
それくらい、やはり山本先生にお会いする時間は最低1年に1回はなければ、と毎年実感しています。
このnoteでは、reunionでいただいた先生の言葉を
私なりの理解でまとめてみようと思います。
プライオリティは何か
山本先生は、ゼミ生になる前の授業の時から、
最も大事なものはプライオリティであるとそれはもう口酸っぱく仰っていました。
人生に無駄なことをしたり、無駄な情報を聞いたりする時間はない、
自身のプライオリティに沿って取捨選択をした人生を歩めよ、ということです。
自身のプライオリティは一体何か?
まずはそれを知り、
そして今の自分は、そのプライオリティに沿った時間配分、力配分で過ごせているか?
を振り返ることが大事になってきます。
もちろん、その時や状況によって
プライオリティは変わっていくものなので、
毎年のreunionで、自分や周りのプライオリティの変化が面白いなぁと思います。
コロナ禍における情報の取捨選択の仕方
そして今回のreunionでは、
コロナ禍をテーマにプライオリティの守り方、
特に情報の取捨選択の仕方をご教示くださいました。
ここでのプライオリティは、命と健康が大前提となってきます。
コロナ禍で一切これを考えなかったひとはいないでしょう。
ただ、「では自分は本当に命と健康を第一優先とした適切な過ごし方ができているか?」
については、かなり人によってバラつきがでるのではないでしょうか。
これは、正しい情報を選択できている人と、そうでない人がいるということだと思います。
特に現代のように、簡単にアクセスできる情報が溢れる中で、
何を信用するのか?というメディアリテラシーはかなり重要なスキルになってきます。
先生は今回、メディアリテラシーを高めるためのポイントとして、
下記をお話しくださいました。
①情報提供者や専門家の名前/肩書き/学歴で、情報の正誤まで判断しない。
②視野を広く、長いスパンでみて判断する。
③ソース元や実験の信用性などをみる。
④情報提供者や専門家同士のディスカッションの中で意見を比較する。
①は、言葉にすると当然というか、簡単な気もするのですが、
実際はかなり信じてしまう、危険なものかなと思います。
「京大医学部の教授です」みたいな方に、
医学的知見からものを言われたら、そりゃ信じちゃいますよね。
いわゆる錯覚資産のせいで、多少の論理の破綻には目をつぶってしまったり。
やっかいなのは、専門家本人も騙そうとしているわけではなく、
本当に信じ切ってる場合もあるということです。
オウム真理教も、高学歴な信者も多くいたそうで、なかなか難しいところです。
では、肩書きでなく、何を見るのか?
基本的には「これを見たら大丈夫」というものはなく、
常に疑うことが大事なわけですが、
②から④のように、とにかく多角的に見ることが大事になってきます。
その領域の専門家だけでなく、さまざまな分野の専門家の意見を見ていき、
すぐに結論づけず、実証実験の有無や内容を見ていく。
もちろん、ソース元が信用できるものなのかも見ていく。
特に④のような専門家同士のやり取りは、
今やTwitterでも見かけることができます。
ただし、その瞬間瞬間の意見を見るのではなく、
その専門家の意見の変遷など、前後をしっかり見ていき、
そこに矛盾がないかをクリアにしていく必要があります。
これらは別に、コロナの情報収集においてだけの話ではありません。
個人的には、社会人になってからはあまり情報収集リテラシーを学ぶ機会がなかったのですが、
特に大学では卒論やらレポートやらの機会で、信用たる情報の集め方は厳密に行った記憶があります。
今後も、大事な情報はそのように集めよ、ということだと思います。
先生のご友人(スペインの方だったかな?)が、
「間違えるなら、安全な方がいい」と仰っていたそうです。
リスクに対する危機管理意識がきちんとあるか?
根底はそこかもしれません。
データを信じない人々
最優先である命や健康を守るため、
正しい情報収集の仕方を教えてくださった先生ですが、
それでも、どうしても、正しいデータを信じることができない人々もいると教えてくださいました。
もしかすると心当たりのある方もいるかもしれません。
データを信じない人々①洗脳
自身のアイデンティティを保つ上で
重要なコミュニティ(家庭、学校、職場など)
において語られるものは、(真実でなくとも)大抵信じ切ってしまいます。
いわゆる洗脳なわけですが、
教育という形で、それが常識だと教え込まれると
なかなかそれを疑うことは難しくなります。
データを信じない人々②
不都合な真実に目を背けたい場合に起こります。
例えば私は、本革のものが大好きなのですが、
動物愛護などの観点で言えばきっと本革の製品はよくないものです。
そういうとき、私にとって動物愛護のあらゆるデータは不都合な真実として映ります。
ただ、このギャップが生まれた時、
人はどうやってこのギャップを埋めるかというと、
行動を変えるより思考を変える方が簡単なので、
動物愛護に関するデータはウソだ、あるいはあまり重要な情報ではない、
としてスルーしてしまうのです。
このような形で、正しいデータが世に出ていたとしても、
それでも信じることができない人々もやっぱりいるということです。
よく分からないものには謙虚であれ
今回はコロナ禍におけるメディアリテラシーについてお話ししてくださいましたが、
やっぱり大学の先生らしいお話だったなぁと思います。
「結論、学問をする人間として、よく分からないものには謙虚であれということです」
先生は最後、そう締め括られていました。
実際ゼミ生全員が学問を研究する職に就いているわけではありませんが、
そういうことではなく、
このゼミで学んだ学友として、
初心を忘れてくれるな、ということだと思います。
不透明な時代でも決断は必要。
とはいえ、不透明で正解がないからこそ、
決めつけて断定するのは怖いことだと思っています。
今年の春、第一波が来ていた頃、
「白湯を飲むと菌が死ぬ」「マスクはあてにならない」「マスクをしてたら絶対大丈夫」
みたいな情報を、あらゆる人がInstagramのストーリーに載せたり、
LINEのグループに送ってきたり、
Facebookで拡散してきたりしました。
正直、その時点でわかっていることは、
新型のためワクチンが現在ない、ということくらいで、
中国での死者数や感染者数すら正しいかわからないという状況でした。
その状況でなぜ、その情報を拡散できるのか?
拡散するということは、人を巻き込む事であり、
自分自身の発言として責任を持つという事であると思っています。
その時、あらゆるリテラシーやら倫理観の低さが露呈したな、と感じました。
正直言って、その時拡散してきた人のことは、今でも信用できないなと思っています。
もちろん、悪意で広めた人は私の周りにはおらず、みんな善人ばっかりなんですけどね。
本当のプライオリティ
コロナの話ばっかりになりましたが、
会の最後は、もっと根本的なプライオリティの話をしてくださいました。
自分の本当の願いは何か?ということです。
その願いの延長線上に今いるか?
それを今回のreunionでも、何度も確認してくださいました。
本当に、先生って、大事なところ何もお変わりになってなくて、
最高だなと思います。
ずっと、ゼミの時もそうやってプライオリティの見定め方を教えてくださっていました。
当然、あなたはこれを大事にしなさいみたいな答えは言わず、
Aikaが大事にしたいプライオリティは何?それは今は自分的にどう?
と内省を促し続けてくれました。
そして卒業してもなお、
「今もその道を行ってるの?あ、でもなんか当時より顔つきが変わったな。考えも変わったかい?」
と、歴代のゼミ生に全員に、名前を呼びながら声をかけてくださるのです。
※ちなみに私は20期生。歴代のゼミ生何人いるんだろう、、
先生は誰に対してもフラットで、そして深い。とんでもなく深い。
人生レベルで向き合ってくださるし、それをずっと続けてくださる。
先生からは英語を教わったけど、正直英語よりも、
生きる上で重要なリテラシーやら、指針の見定め方や、強みの見出し方、
そして「相手との縁を大事にする」ことの重要さや、その方法を、
身をもって教えてくださったという記憶が強いです。
(英語科出身としてはよくないですが。笑)
今回の話も、
「縁ある大事な人たちだから、正しい選択をしてほしくて、厳しい話をした」と仰っていました。
プライオリティの最上位は命と健康。
ではそれを守った状態で、さらに何を大事にするか?
私も先生のように、私にとって大事な人たちの縁を
大事にする人でありたいと強く思います。
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